2026

04/15

良いことに注目する

  • メンタルヘルス

西松 能子
博士(医学)、大阪医科大学医学部卒業後、公徳会佐藤病院精神科医長、日本医科大学附属千葉北総病院神経科部長、コーネル大学医学部ウェストチェスター部門客員教授を経て、立正大学心理学部名誉教授、現在あいクリニック神田にて臨床を行う。

よしこ先生のメンタルヘルス(80)

つらい記憶は鮮明?

人は良くないことや悪いことは不思議と良いことより、よく覚えているといわれます。一方では記憶は風化するともいわれ、つらかった戦争や天災の記憶はいつの間にか忘れ去られるともいわれます。例えば、東日本大震災の時には、21%の人が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したと報告されています。このことも、人をびっくりさせるかもしれません。あんなにつらい災害に遭っても、2割程度の人しかPTSDに罹らないものかと驚く方もいらっしゃるでしょう。さらに、1年後には約半分の方しかPTSDの診断に合致しなくなりました。つまり1年のうちに半分の人がつらい記憶を和らげることができたことになります。人の記憶とはつくづく不思議なものですね。つらい記憶は良い記憶より鮮明である一方、人によっては容易に忘れ去られてしまいます。

変わりつつある昨今のメンタル不調

昨今の精神科の外来では、統合失調症や双極性感情障害などが激しい精神病状態で受診される方はめっきり少なくなりました。いまやメンタルヘルス外来の主役は、適応障害、心的外傷後ストレス障害、特に複雑性PTSDといわれる逆境的生長にまつわる心的障害と発達障害となりつつあります。つまり、その人の素因と正常な反応の長さと深さの異常によるメンタル不調が外来の中心になりつつあります。

日本の現在の精神科医療は、かつて統合失調症や双極性感情障害がメンタルヘルスの主役であった時代に広く国民全体のメンタルヘルスの向上を意図して仕組みが作られており、薬物療法が中心です。ところが、適応障害、PTSDや発達障害など昨今のメンタル不調は、適応できる薬物療法がまったくなかったり、治療の一部にしか薬物療法が有効でなかったりする場合が多いのです。つまり、精神科医療を求めてくる人たちにとって、現状の精神科医療はミスマッチが起こりやすいともいえます。

メンタルが改善する理屈

私が働いているクリニックは都心にあり、適応障害、PTSD、発達障害の方が多いクリニックです。従来の医師中心の精神科医療体制では今どきのメンタル不調に対応できません。心理職や精神保健福祉士などが多く、協働して働いています。受診される方の4割近くの方が薬物療法以外の治療を併用しています。受診される方の多くは、不思議なことに、良くないこと、つらいことを詳細に覚えています。「良いことはありましたか」と尋ねると、「えー、ないですよ」と困惑した様子で日々の苦痛をお答えになります。どうやら、悪いことを良いことより不思議とよく覚えている記憶を持つ方が多そうです。お話をお聴きして、「それは良いことですね」と相づちを打つと「当たり前ですよ」「普通のことじゃないですか」「誰でもそうですよ」などとお答えになります。つらかったことや偶然起こった不都合について詳細に訴えられることもしばしばあります。お話をお聴きして、「それって素敵なことですね」などと申し上げようものなら、「えー! そんな……」と困惑されることがしばしばです。「良いことは褒める、悪いことはスルーする」と申し上げると、「えー、そんなことをしたらひどいことになりませんか」とおっしゃいます。

実は、「良いことを褒めて、悪いことはスルーする」という行動は、日常の生活やメンタルが改善する理屈が潜んでいます。それは、「分化強化」といわれる行動療法の基礎の基礎、といった理屈です。それは一言でいうと、「望ましい行動、してほしい行動だけを褒めて(強化)増やし、困った行動、望ましくない行動には反応しないことで減らしていく」という技法です。この技法は、もっぱらイヤイヤ期や反抗期の子供たちに対して用いたり、認知症が始まった方に用いたりして、教育や福祉の場で使われてきた技法です。外来の様子が様変わりしたメンタルヘルス領域でも充分応用できそうに感じます。特に心に傷を負った方に「良いいことは褒める、悪いことはスルーする」と申し上げると、「えー、そんなことをしたらひどいことになりませんか」とおっしゃるのですが、実際に、良いことに注目するノートを作ってもらうと、「意外と良いところってあるものですね」とおっしゃいます。

人は自然界の中では足も遅く、力も弱い生き物ですから、「怖がる」「逃げる」「悪いことにいち早く注目する」ことで、生命を守ってきました。変化した人間を取り巻く現代世界の中では、よいことに注目することが適応的な行動を増やすことになりそうですね。

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