2020

01/09

しつけが虐待へ、指導がパワハラへ変身する時代に

  • メンタルヘルス

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西松 能子
立正大学心理学部教授・博士(医学)、大阪医科大学医学部卒業後、公徳会佐藤病院精神科医長、日本医科大学附属千葉北総病院神経科部長、コーネル大学医学部ウェストチェスター部門客員教授を経て現職日本総合病院精神科医学会評議員、日本サイコセラピー学会理事、日本カウンセリング学会理事、現在あいクリニック神田にて臨床を行う。

ドクターズプラザ2020年1月号掲載

よしこ先生のメンタルヘルス(54)

拡大し続ける精神科領域

精神医学はこの100年、遅々として進んでいません。身体科では、以前は恐ろしい感染症だった後天性免疫不全症候群(HIV)は、ここ数年間に重篤な合併症を発症する前ならば、抗HIV薬が劇的に効果を上げ、恐れることのない疾患に変身しました。しかし、統合失調症やうつ病は、変わらず致命率15%の疾患であり続けています。精神の障害による障害年金は、2018年に身体の疾患による障害年金の発給枚数を超え、精神科領域の疾患が社会に占めるインパクトがむしろ大きくなっています。従来から精神医学の対象であった疾患が変わらず力を持っている一方で、精神医学が関わる領域は社会の変化の中で拡大し続けています。いわば、正常の悩みより少しだけ深い悩み、少しだけ長く続く苦悩を癒す役割も担いつつあります。以前であれば、隣人や親戚が知恵を貸したような苦悩かもしれません。

コモンセンスの役割

現代の日本は、今ここで「私」が持っているコモンセンスが社会にとって受け入れられるものか、否かを実感として判断することが難しくなっている社会といえるかもしれません。電車の中で大声を上げて走り回る子どもを注意することをためらうことはありませんか? あるいは実際に叱責をして、同伴する母親から「放っておいてください。この子は自由に育てたいんです」と言われたことはありませんか? 隣家がどのように暮らしているのか、どんな仕事をしているのか、ご存知ですか? 朝ばったり隣人と会って、「おはよう」とは挨拶をするかもしれません。それ以上に踏み込んで、「朝ごはん何だった?」と聞いたり、足りなくなった調味料の貸し借りを頼んだりすることなどは、思い付きもしません。マンションでも一戸建ての家でも、お互いに干渉しないのが今風です。

かつてムラ社会が、コンセンサスとして共有してきた生活の流儀、子育ての仕方、家族のありよう、対人距離は、いまや極めて「個」的なものとなり、コモンセンスの役割は、児童虐待防止法やパワーハラスメントやセクシュアルハラスメントを防止する法律に代理されることになりつつあります。

養父が「父になりたかっただけ」「しつけがいき過ぎた」と訴えた目黒虐待死事件は、13年の実刑判決が地裁で下されました。昨今、外来では、虐待通報されたとの訴えをしばしば聴くようになりました。Aさんは発達障害の2児を育てるキャリアウーマンです。在宅で翻訳の仕事をしている夫と協力して子育てをしていますが、過敏さのある長男は徹夜明けの父の臭いを嫌がり、父の作った食事を摂れないことがあります。このところ仕事が立て込んでいる夫に代わり、朝食の用意をして慌ただしく出勤した後、職場で携帯電話が鳴りました。「児童相談所です。お子さんたちを保護させていただきました。」「えっ、どうして!」と慌てて学校に電話をしましたが、すでに学校では児童相談所が関与していることを承知しており、校長と面談してほしいと言うばかりでした。早々に仕事を切り上げ、学校に出向くと、どうやら長男が朝礼で倒れ、何日も食べていないと訴えたようでした。弟も食べていないと口を揃えたので、学校から児童相談所に通報されてしまいました。その足で児童相談所に出向きましたが、すでに子どもたちは保護所に入所していました。どうしたらいいのか分からなくなったAさんは、翌日朝一番でクリニックに飛び込んできました。Aさんと話し合い、主治医は子どもたちが発達障害であること、臭いに過敏で食事ができないことがあることを、児童相談所へ診療情報提供書として送付しました。10日も過ぎた頃、児童相談所の事情聴取があり、一旦子どもたちは他県にいる祖父母のもとで保護されることになりました。何回かの会議の後、子どもたちは戻ってきましたが、日々の生活はまだ薄氷を踏む思いです。

2015年7月に児童相談所全国共通のダイアルが189(いちはやく)に変更されて以来、1カ月2423件の通報が1カ月32987件の通報へと激増し、その後は25000件前後に落ち着きましたが、高止まりしています。育児や対人関係の悩みを隣人や親戚が聴くのではなく、精神科クリニックに飛び込んでくる時代は、虐待やパワハラ、セクハラの通報の多くなる時代かもしれません。通報が弱者を救うようになりますように。

 

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