2024
09/03
緩和ケアの扉は開かれていない!?
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緩和ケア
日本緩和医療学会緩和医療専門医。日本緩和医療学会代議員・日本死の臨床研究会代議員。
一級建築士、技術士(都市計画)の資格を持つ異色の緩和ケア医。現在は緩和ケア病棟(設計)の研究のため、東京都立大学大学院都市環境科学研究科建築学域に在籍中。
新連載:「緩和ケア」の現状と課題(1)
今回から事例検討やタイムリーな話題の紹介を通じて「緩和ケア」の現状と課題について、お話しをさせていただきます。第1回は、若い緩和ケア・訪問診療医Aさんの体験談を取り上げ、緩和ケアの現場で起きている問題点の一つを紹介します(匿名での公表の了解を得ています)。
医療者のAさんががんに……
Aさんに、がんが見つかった。年末、2週間くらい痰に血が混じっていたのが気になって近くの耳鼻科を受診し、「念のため」内視鏡、「念のため」生検(細胞を取って顕微鏡で確認)。その後その医院からは何の連絡もなく、結果が出る1カ月後に予約どおりに受診したらあっさりと「悪性でした」と。
Aさんはまだ40歳代。健康には人一倍気を付けておられ、「まさかAさんが……」、とは周囲の共通した印象です。Aさん自身も「たぶん良性だよな?」、と考えようとはしたのですが、それでも結果が出るまでの1カ月間、やはり落ち着くことはできなかったそうです。
紹介されてすぐに大病院を受診し、CT、MRIなどでの精密検査。Aさんは自分で情報を集めたところ、その病気の7割が診断時にすでにステージⅣであることを知り、がんのステージがはっきりするまでの10日間は死を覚悟しながらの毎日。幸いにもがんは初期の段階(ステージⅠ)であることが分かり、3週間待って放射線治療を開始。
がんの告知とか、病気の説明とか、治療の選択とか、そういうことの診察室でのやりとりがあまりに淡々としていたことに、Aさんは大変驚きました。Aさん自身が医療者ですから「言わなくても分かるよね」という調子で主治医も、横に立っていた看護師も事務的に振る舞ったのではないか、とも考えたそうですが、少なくともAさんが“死を覚悟しながらの毎日”を過ごしていたにもかかわらず、病院関係者からは「大丈夫ですか?」のひと言もなかったのです。
放射線治療は約2カ月かけて実施。その間、休職中の待遇の問題で元の職場は退職。治療後、新しい職場を自分で探して仕事(訪問診療)を再開。ただし、放射線照射の後遺症で唾液の分泌が滞り、食事摂取は今でもつらい。Aさんは思った。緩和ケアの扉は開かれていない、と。
「がんと診断されたときからの緩和ケア」は十分か!?
がんという病気は、病巣の拡大や神経への浸潤で痛みが強くなったり、死を前にして苦しくなったりすることばかりがつらいことではなく、がんが見つかったときや治療したがんが再発したときの精神的なつらさもとても大きいものです。Aさんはまさにそれを体験しました。そして、その時に自分に差し出される手の少なさに驚き、また、実際に感じた生活の不自由さや苦痛に対して十分な手当てをしてもらえないことに気付いたのです。
日本では法律(がん対策基本法)に基づく「がん対策推進基本計画」(厚生労働省)が定められ、もう10年以上にわたり国を挙げて「がんと診断されたときからの緩和ケア」を広めるための取り組みが行われています。がん診療に携わる医者のほとんどは厚生労働省通達に基づく「緩和ケア研修会」でそのことを学んでいますし、また、体や心のつらさを抱える患者を見逃さないように、がん患者に対するスクリーニング調査なども多くの病院で実施されています。
Aさんが紹介されたような大きな病院(がん診療連携拠点病院など)には、困った患者さんが相談にいくことのできる窓口が設置されていて、本当は、治療費や仕事の続け方、家族の問題などまで含めて相談に乗ってもらえるようになっています。けれども、Aさんにはそのことは一切告げられませんでした。がん治療に伴う副作用への対応についても、Aさんは、一番役に立ったのはインターネットに載っている患者さんたちの体験談だったと話しています(Aさん自身が緩和ケア医ですから、当然、それなりの症状緩和の知識はありましたが、そのことはいずれまた機会を見つけてお話しします)。まだまだ「がんと診断されたときからの緩和ケア」は十分ではないのでしょう。
緩和ケアとは、何か治療を行うことだけではないし、ましてや救済制度のようなものを用意することではありません。患者さんのつらさに気付き、患者さんに何が必要なのかを見つけ、手を差し伸べることです。“扉を用意するのではなく、用意された扉をどうやって開けてあげるか”、私たち緩和ケアに携わる者は試されているのだと思います。