2026
01/09
開業助産師
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助産師のお仕事
東京家政大学健康科学部看護学科准教授
助産師のお仕事(5)
産科医療的にも特殊な年だった60年前の丙午
新年あけましておめでとうございます。今年は午年ですね。それも60年に一度の丙午に当たります。今では迷信となりましたが、丙午生まれの女性は気が強く……などの言い伝えがあり、前回の丙午であった1966年は出生数が約136万人、出生率が1.58で前年に比べマイナス0.56と著しく低下しました。しかし、その翌年の出生数は約193万人で出生率も2.23と0.65増加(※1)しておりこの数値の変化から、当時はまだ丙午の言い伝えを信じる人の割合が相当数いたことが分かります。その5年後には毎年200万人以上の新生児が誕生する第2次ベビーブームを迎えることになるので、60年前の丙午は産科医療的に見ても特殊な1年間であったといえます。
さて今回は、開業助産師の仕事についてご紹介したいと思います。助産師には開業権があることを既にお話しています。出産を取り扱う「助産所」がイメージしやすいかもしれませんが、皆さんの中でどれ程の方が実際に助産所を利用したことがあるでしょうか?
私は東京の多摩地域で1960年代に生まれました。母子手帳を見ると出生の場所は地元の病院で担当した産科医師や助産師の名前が記されています。一方、同じ年代に生まれた夫は埼玉の自宅で助産師さんに取り上げてもらったそうです。結婚したばかりの頃に舅(しゅうと)が「雷の中、地域の助産師を呼びに行ったけど、まだ時間がかかると言われて1度帰ったんだよ……」と話してくれました。まさに出産の場所が自宅から病院へと転換する時代を象徴するエピソードです。
私が助産師の存在を知るきっかけとなったのは、高校生の時に書店で手に取った「看護婦・助産婦学校入学試験問題集」という冊子です。その後、看護学生時代の病院実習まで実在する助産師と出会うことはありませんでした。
さて、話を戻しますが助産所とは、医療法で「助産師が公衆又は特定多数人のためその業務を行う場所をいう」とあり、必ずしも分娩を取り扱わなければならないとの規定はありません。つまり、助産師が助産業務を行う場所を助産所と言います。これまでにも何度かお話しているので既にお分かりの方もいるかと思いますが、助産師は女性とその家族の健康を生涯にわたって支援することが仕事です。よって、助産所での仕事も幅広くなります。分娩介助を主な業務にする助産所、妊産褥婦の保健指導(母乳育児相談など)、産後ケアのみ、これら全てを行う総合的な助産院などなど……多岐にわたります。もし、これから利用してみたいと思った方、まずはお近くの助産所を探してみてください。日本助産師会のホームページでは全国助産所一覧で検索できるようになっていますのでお勧めです。
昭和に活躍した開業助産師
今ではさまざまに業務形態が分化した助産所ですが、元はといえばこれらのほとんどの仕事は1カ所の助産所で対応できていたものでした。戦中、終戦直後に助産師免許を取得し、活躍した開業助産所の助産師さんたちの話を基に助産所の仕事について紹介したいと思います。
都内で助産所を開業した助産師Aさん
Aさんは母親から教師になるように勧められたそうですが、地元の高等女学校には進学せずに東京に上京して助産師免許を取得しました。その後、都内のいくつかの病院で助産師として勤務しましたが、戦況の悪化と医師の出征で病院が閉院となり一時、地元に戻りました。しかし故郷でも戦争で若い男性がおらず、助産師としての仕事はほとんどなかったと言います。しばらくは自宅療養中の患者に薬を配ったり、注射をしたりと医師の代行のような仕事ばかりしていたそうです。どうしても助産師の仕事がしたくて終戦の間際に再び上京しますが、激しい空襲に見舞われ命からがら防空壕まで逃げ込んだというお話も伺いました。
Aさんは戦争が終わるとすぐに都内で助産所を開業し終生、助産師として働いた方です。助産所開業後は、毎日分娩があって寝る暇もなく、お産が終わればタライを持って「産湯使い」に1日に何件も回ったと話していました。開業当初は食糧事情も悪く、出産後の食事の提供が難しかったようで産婦にお米と布団を持参してもらっていたそうです。出産や子育て、授乳など何か困ったことがあれば話を聞いたり、その人にあった方法を教えたり、夫婦間や家族の悩みを聞いたりすることも助産所の仕事として対応していたようです。Aさんは「地域でのお祭りや主要な行事には必ず呼ばれた」と懐かしそうに話し、「助産師はね、地域に根差すことが大事、それが開業術だよ」と力強い言葉が今でも時々思い出されます。昭和の時代に助産師は地域になくてはならない存在であった様子が良く分かりますね。
親戚の助産所を受け継ぐために助産師になったBさん
Bさんは、まだ焼け野原が残っていた東京に親戚の助産所を受け継ぐために上京し、助産所の手伝いをしながら助産師学校に通って免許を取得しました。戦後、爆発的に出産数が増え続ける中で助産所の仕事は忙しく、始めのうちは親戚である院長と同行するかたちで産婦の自宅に出向き、分娩介助を手伝ったそうです。そのうち段々慣れてきて、院長が不在の時などにお産の連絡を受けると、産婦の自宅に様子を見に行くこともあったそうです。その頃、Bさんが一番、緊張したお産は「逆子(骨盤位)」の分娩だったと言います。
助産所の留守番中にお産の知らせを受けたBさんは、いつものように分娩の経過を見て、介助が必要なタイミングで院長を呼びに行く予定でした。産婦の家に到着後、しばらく様子を見ていたBさんは、産婦さんのお産の進みがいつもより遅いなと思っていた矢先、産婦の産道から胎児の足の様な部分が出てくるのを見たそうです。即座に「逆子」だと分かったそうですが、これまで逆子の分娩を介助したことがなかったBさんは、院長がそろそろ戻るはずだと、そのまま産婦のそばに留まることにしたそうです。
Bさんはまだ助産師学校に通い始めだったようですが、授業の時に産科医師から聞いた「逆子は決して引くべからず」という言葉が頭の中で繰り返し浮かび、出てこようとする胎児を両手で必死に支えていたところ最後は「つるん」と生れたそうです。Bさんがホッとしていたところに助産院の院長が駆け付け、無事に生まれたことを一緒に喜んだそうです。
Bさんはその他にも、自宅分娩中の母親が急変し、産科医師が緊急帝王切開をしてくれた話などもしてくれました。その産婦の家には子どもがたくさんいて経済的な余裕がなく、医師は手術などの費用は請求しなかったそうです。出産後も沐浴に行くついでに産婦の自宅に寄っては、産着を洗濯したり肌着を差し入れたりしながら母親の回復を見守ったという話も聞かせてくれました。出産は正常に経過していてもさまざまな要因で医師の介入が必要になる場合があります。Bさんは助産所の仕事を始めたときから地域の医師と連携しながら分娩の介助に当たっていたことが分かります。地域の医療ネットワークの一つとして助産所が位置付けられていたことは、長年にわたり助産所を続けられた一つの要因だといえるでしょう。
戦後の日本は、助産所を開業していた地域でも、助産師学校があった都内でも経済的格差が激しく、出産や子育てに苦労した人が多くいた時代でした。Bさんが助産師学生として実習した都内のある産院では医師が出産の介助を行う産婦が入院する病棟と、助産師学生が分娩介助を行う病棟に分かれており、助産師学生が分娩介助を行う病棟の方が入院費用が安く設定されていたそうです。
Bさんの助産所でも子育てや夫婦間の悩み、家族の事など、いつでも相談に乗っていたようです。来客が絶えず、いつも賑やかな助産所の前の通りは「おかげさん通り」と呼ばれ、どんな偉い人でも取り上げてもらった助産師に会えば、「おかげさんで……」と頭を下げる姿が見られたと言います。地域の助産師が一人一人の出産を均しく扱っていたことが分かります。Bさんはその後、助産所を引き継ぎ忙しい日々を送りましたが、出産の場所が自宅から病院へと移ると分娩介助よりも母乳や育児相談が助産所の主な仕事になっていきました。
現代の助産所
時代は移り変わり、出産の場所が自宅から病院へ……専ら母親の仕事だった産後の子育ても夫婦やカップルが分担して行うようになってきています。出産可能な年齢も長くなり、陣痛の痛みを和らげる無痛分娩の費用の助成も一部地域では始まっています。今までの苦しい、つらいお産から解放され、女性が生き生きと生活できて、出産・子育てがしやすい環境がもっと整えば良いなと思います。
一方で、雨の日も雪の日も空襲や災害の中でも自宅に駆け付け、苦しくつらいお産と共に寄り添ってこられた先輩方の仕事に敬意を表します。現代の助産師もこれまで培われた助産師の仕事を引き継ぎながらより良い助産の追究に励んでいます。
時代が変わっても女性が子どもを産むことに変わりはありません。一人一人の女性が自身のお産に向き合い、満足いくお産を経験してもらいたい……それぞれの理念の下、助産所を開業しています。助産所を利用する機会があったらぜひ、その空間を体験して助産師の仕事に触れてみてください。
(※1) 国立社会保障・人口問題研究所、厚労省統計情報部「人口動態統計」一部抜粋の資料より