2025
11/07
緩和ケア病棟とホスピタルアート
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緩和ケア
日本緩和医療学会緩和医療専門医。日本緩和医療学会代議員・日本死の臨床研究会代議員。
一級建築士、技術士(都市計画)の資格を持つ異色の緩和ケア医。現在は緩和ケア病棟(設計)の研究のため、東京都立大学大学院都市環境科学研究科建築学域に在籍中。
「緩和ケア」の現状と課題(8)
緩和ケア病棟におけるアート装飾
ホスピタルアートといえば、医療福祉の場では今や市民権を得たと言ってよいでしょう。緩和ケアの現場でも、患者さんや家族、スタッフが癒される光景はもう珍しくありません。私の勤めていた緩和ケア病棟でも、廊下の壁面などでホスピタルアートが行われていました。
緩和ケア病棟は「生活の場」としての雰囲気を大事にしなければならない空間です。どこの病棟でも見られる白い壁・天井と規則正しい機械音ばかりの、無機質で、機能一辺倒の空間に、ホスピタルアートは温もりを演出します。そして病棟のスタッフも、ホスピタルアートがあれば病室にこもりがちな患者さんたちを「絵を見に行きましょう」と誘って廊下に連れ出すようになります。アートで装飾することが緩和ケア病棟の質の確保に有効であることには、異論はないかと思います。
患者の「個」を支える
緩和ケア病棟においてホスピタルアートに求められるものは、病棟の雰囲気づくりだけではありません。
私がお手伝いしたある展示は、ご家族が患者さんに少しでも元気になってもらいたいと、患者さんの往年の傑作を持ち込まれました。運筆がのびやかで、勢いも感じられる書の数々は、普段「コワイ、コワイ」(北海道の表現で倦怠感がつらいこと)と横になってばかりいる患者さんからは想像のつかないものでしたが、患者さんをその作品群の前にお連れすると、短い時間ですが意識覚醒、倦怠感も和らぎ、車いすをこぎながら「この墨のにじみ方が偶然ながら素晴らしくて……」といろいろ作品の解説をしてくださいました。こういう患者さんの個展のような活動は私の経験に限らず、全国の緩和ケア病棟で盛んに行われています。
ホスピタルアートがあれば、患者さんは、作品を通じて自分の歩まれた人生の証を思い出すことができます。場合によっては、スタッフの助けを借りながら、もう一度往時の腕を振るったりすることもあります。緩和ケア病棟で守りたい大事なことの一つが患者さんの「個」、すなわち、他の誰でもない、その人がその人として扱われるということです。ホスピタルアートは、時計の針を逆に回して、一瞬かもしれないけれども、患者さんを元の自分に戻すことができ、病を患っていても自分であり続けようとする姿勢を応援することができます。その点でも、ホスピタルアートは緩和ケア病棟において大きな役割を果たしていると思います。
創造の中に生きる
「人間は自らの創造の中に生きることができる」―これは詩聖ラビンドラナート・タゴールの言葉が残した言葉です。創造するというのは、皆が同じことをして同じもの・ところに到達することの反対で、それぞれの人がオリジナルに感じ、考え、時に動くことであり、創造した人はその結果独自の境地に達するのだと思います。アートは、それに向き合う人に、創造ゆえの自由を与えるものです。
私の勤めていた緩和ケア病棟には、こんなホスピタルアートの解説文が貼り出されていました。
「アートと触れる機会が病棟にもあったら、自由に思いをはせたり、周りの人との会話を弾ませたりすることもあるのではないでしょうか……。患者さん一人一人に、その人らしくアートを感じてもらい、周りの人とのつながりを強めてもらう。そして運が良ければ、まるで草むらの中で偶然四つ葉のクローバーを見つけた時のような感動(セレンディピティ)を体験してもらう。これがアート展示の目的です」。
アートには、やはりアートならではの患者さんの魂を震わせる力があります。「創造」の引き金とでも言いましょうか。これも、患者さんが「生きること」を支える緩和ケアにとっては大きな魅力です。
アートは不公平
セレンディピティのチャンスこそがアートだというのはよいけれど、アートは誰にも同じ効果をもたらすものではありません。同じ作品に接しても、ある人は心温められても、別の人は首をかしげるかもしれません。退屈に思うかもしれません。その作品と相性のよい患者さんがたまにいて、その人にだけ福音をもたらす―ある意味、アートは不公平です。けれどもこの「不公平さ」こそが、アートの真骨頂かもしれません。四つ葉のクローバーがいつも見つかるのだったら、それは面白くないでしょう。
私は不公平であろうとも緩和ケア病棟にはアートがあった方がよいと思います。少なくともアートの前では患者さんは平等になれます。アートから何を受け取るかは人それぞれであり、誰もが恩恵を受けなければならないというのは、それこそ一般病棟に見られる「個」を喪失させることでもあります。
ではそのアートの恩恵に受けない患者さんには? この質問に、私は笑顔で答えています。
四つ葉のクローバーを探しに、次のアートにお誘いしましょう!
注:緩和ケア領域におけるホスピタルアートの概説が以下にあります。
小田浩之,日野間尋子:緩和ケアに通じるホスピタルアート─その経緯と指向性.緩和ケア Vol.35 No.5:377-383,2025