2021

04/26

~患者さんの全体像を捉え、患者さんの家族にも寄り添う~

  • 僻地・離島医療

  • 沖縄県

沖縄本島北部の本部(もとぶ)半島から北西約9㎞の海上に位置する一島一村の離島・伊江島(村)。伊江島唯一の総合診療の医療機関である伊江村立診療所は、人口約4,400人(令和3年2月現在)の健康と命を守っている。また、平成26年には透析センターを開設している。今号では、行政と連携して島民の健康づくりに取り組む診療所長の阿部好弘医師に伊江島の診療体制や離島医療のやりがいなどを伺った。

ドクターズプラザ2021年5月号掲載

僻地・離島医療(18) 沖縄県・伊江村立診療所(伊江村医療保健センター内)

離島医療は、医師としての基本的な心構えを学ぶ良い機会

行政とのスムーズな連携で村民の健康を守る

―伊江村立診療所の概要と体制について教えてください。

阿部 診療所は伊江村立医療保健センター内にあります。同じ建物に伊江村の医療保健課が入居しており、村の保健師も常勤し、行政と連携して一緒に医療や健康管理に取り組める環境にあります。診療科目は、内科、外科、小児科などの総合診療と全ての救急に対応しています。そのほか、村内の保育所、幼稚園、小・中学校の健康診断、老人ホームや在宅の往診も行っています。また、漢方外来、眼科、耳鼻科などの専門外来は専門医の派遣により定期的に開設しています。医療スタッフは、医師が常勤の私と非常勤医師の計2名です。看護師が8名、放射線技師が1名、理学療法士が2名です。夜間や日曜祝祭日の救急患者の対応を含め24時間体制で診療を行っています。島で唯一の総合診療の医療機関として、村民の健康と命を守る役目を担っています。

―診療所のスタッフは地元の人が多いのでしょうか? また、離島だと医師や看護師の確保が難しいと思いますが、苦労などはありませんか?

阿部 看護師をはじめほとんどのスタッフは地元住民ですが、村外から来て働いている方も多いです。医師確保は村独自で頑張ってきた経緯があり、村立診療所として村民のための医療を目指してきました。県からの定期的な医師派遣がないため、現在、伊江村役場から県に要請したり、役場の担当者が独自に情報を集めて、医師の確保に奔走しています。ちなみに診療所では、県内外から研修医や医学生を積極的に受け入れています。離島では、いろいろな症例を診ることができることや、「患者さんの全体像を捉え、患者さんの家族にも寄り添って診ていく」という、医療の原点を学ぶことができます。

スタッフの皆さん

―診療所に併設している透析センターの概要と体制について教えてください。

阿部 平成26年に開設した透析センターのベッド数は11床です。在籍している医療スタッフは、臨床工学技士が1名と看護師が5名です。島内の透析患者さんだけでなく、お盆やお正月に里帰りする人や島外から来られる観光客、修学旅行生なども利用しています。

―透析センターができる前は、島の患者さんはどうされていたのですか。

阿部 村の透析患者さんは、朝8時のフェリーで島を出て本島の病院へ行き、夕方5時の最終便に間に合うように帰ってきていました。台風が接近したときは、フェリーが欠航する前に本島に渡り、本島に家族がいない方は、ホテルに泊まり台風が過ぎ去ってフェリーが運航を始めるまで島に戻ることはできませんでした。透析センターができてからは、経済的な負担や精神的ストレスから解放されて良かったと思います。島の場合は、医師が短期間で替わるので一人の人の健康管理を長期間しっかり診ていくことが難しいのですが、「僕がずっと島にいますから」と言って透析センターを開設していただきました。

―緊急の場合の島の医療体制は、どのようになっているのでしょうか?

阿部 緊急のときは、診療所か役場に連絡する場合と119番通報する、2つの方法があります。診療所か役場に連絡した場合は、平日の時間内であれば役場の職員が対応し、時間外のときは消防団の団員が対応します。診療所から現場に出動する場合もあり、島外などに搬送するときは診療所の救急車を使います。また、119番通報をした場合は、本島の沖縄県消防指令センター(嘉手納町)につながるため、センターから通報者へ指示をするのと同時に伊江村役場へ連絡が入り、位置情報を伝えて現場に急行するように指示を出します。

待機中の「やんばるレスキューヘリ」

―伊江島から本島への緊急搬送はどのように行っているのでしょうか。

阿部 3つの方法があります。1つ目は、昼間の定期フェリー(1日4便運航)で、看護師1名が救急車の運転と患者さんの観察を兼任します。2つ目は、昼間の救急ヘリ搬送です。伊江島の空港にやんばるレスキューヘリ(以前のMESHヘリ)の基地があります。診療所から車で約10分で空港に着きそこから救急ヘリで搬送します。3つ目は、夜間の伊江村救急患者搬送船です。昼間でも天候によりヘリ搬送ができないときには救急艇を利用します。救急艇ができる前は、小さな傭船で搬送していました。波に揺れる小さな船内での搬送にとても苦労したのを思い出します。

伊江村救急患者搬送船「みらい」。阿部先生も内部の設計に関わった

―島民の健康状態は。

阿部 働き盛りの世代は、高血圧症や脂質異常症、糖尿病の患者さんが増加傾向にあります。それは、過剰飲酒・喫煙・食習慣などの生活習慣が主な要因に挙げられます。地域行事が多いことや、村ならではのことですが、出産祝や小学校の入学祝、高校の合格祝など、お祝ごとは家族・親族だけではなく村民みんなでお祝いをするという風習があります。また、沖縄には「モアイ(模合)」という独特の文化があります。グループで定期的に集まって一定金額を出し合い、集めた人数分のお金を一人ずつ順番に受け取れるとういう仕組みです。同級生の絆も深く、生まれ年を祝う生年祝も行われます。地域行事、お祝、モアイなど、飲食する機会が増えることが、過剰飲酒などの要因につながっていると思います。また、村の高齢化率は28.4%(平成27年、国勢調査)と沖縄県の高齢化率を約10%も上回っています。

―健康診断の受診率の向上や健康に関する啓蒙活動などは行っているのでしょうか。

阿部 75歳以上の後期高齢者の受診率が約62%と、健康に関しての意識が高いのに対して、若い世代や働き盛りの世代の健診受診率が約33%と低いのが現状です。対応として、20代から50代の健診受診率の向上を目指し、「働き盛り健診」「がん・婦人がん健診」を土・日に受診できる体制を整えました。また、伊江村では健康増進計画に基づき、平成29年度から健康づくり事業を実施しています。令和元年度からは毎年7月を「健康づくり月間」としてさまざまな講座や体験教室が企画されています。私も「呼吸法と気功」の講師を務めましたが、健診結果を踏まえて保健師の個別相談や保健指導も行われ、生活習慣病の予防につなげています。

目標を失い、大学2年生の時に休学

―先生ご自身についてお伺いしたいと思います。幼少期はどちらで過ごされたのですか。

阿部 鹿児島県の奄美大島で生まれ、小さいときに父の転勤で徳之島へ移り、中学校卒業まで徳之島で育ちました。高校は、親元を離れて鹿児島で高校生活を送りました。その当時は医者になろうなんて思ってもいませんでしたが、今思えば、父の指のけがを見たことで離島の医療に興味を持ったのかも知れません。

―それは、どんなけがだったのですか。

阿部 電力会社に勤務していた父は、ある日、仕事中に3本の指を切断してしまいました。部落で唯一の産婦人科の医師に診てもらったのですが、徐々に感染が進行し、指の根本から切らなくてはいけなくなってしまい、鹿児島市内の病院に転院して手術を受けました。伊江島でも四肢の外傷で来られる患者さんがいますが、父のことを思い出します。

―それでは、いつごろから医師を目指されたのですか。

阿部 高校3年生の時は医学部ではなく、建築や宇宙工学に興味を持っていましたが、成績が悪く1年浪人をしました。予備校で周りの同級生が医学部を受験する人が多く自分も受けてみようと思い、鹿児島大学医学部を受験しました。しかし、入学後も医学にあまり興味が沸きませんでした(笑)。2年生の時に苦手な生物の学科で単位を落としてしまい留年しました。留年した年の半年間で生物の単位を取り、残りの半年間は休学しました。

―休学中はどんなことをされていたのですか。

阿部 人生に迷っていたというのか、「何が真実なのか?」、「誰を信じたらいいのか?」、「誰が本当のことを話しているのか?」など、真剣に悩む日が続きました。大学の図書館で哲学や宗教の本を読みあさったり、教会の宣教師と寝食を共にして生きることを模索する日々でした。手話を覚えて聴覚障害のある方の手話通訳もしたり、医学とは関係のないことをしていました。そんなある日、電柱のはり紙を見て空手の道場を訪ねました。そこで、私の人生の師である館長先生と出会いました。

―館長先生との出会いが、人生の大きな転機になったのですか。

阿部 館長先生に会った時に私の心にずしんと伝わってくるものがありました。入門が許され、空手の術技以上に人生の大切なことをたくさん教わりました。「一人で海におぼれているときに「自分を助けるのは自分しかいない「自分を救えなくて誰かを救うのか」と。また、よく「聴診器で人を診るな、心で人を診ろ」とか、「無茶はするな、無理はしろ」とか、そのような言葉のおかげで、私は医学部を無事卒業することができました。

目の前に倒れている人を助けたい、という思いから選んだ救急の道

―先生の専門を教えてください。

阿部 救急と外科です。医学部を卒業した後、鹿児島大学病院の救急部に入局しました。目の前に倒れている人を助けたいと思い、救急を選びました。2年目は1年目の後輩の指導をし、3年目は外科と産婦人科の勉強をしました。4年目は、帝京大学病院救命救急センターに助手のポストで勤務しました。救急の貴重な経験を積む中で外科をやりたいという思いが強くなり、京都大学第2外科に入局し、外科医として北九州市の小倉記念病院で7年間腫瘍外科を勉強しました。その後、鹿児島の病院で救急部長、外科部長を兼任し、オーストラリア留学などを経て、平成21年に伊江村立診療所に来ました。

伊江村医療保健センター内に診療所がある

―オーストラリアへ留学したのは何か理由があるのですか?

阿部 小倉記念病院に勤務していたころ、10歳の男児を亡くした苦い経験があります。交通事故による頭部外傷で搬送され脳外科の医師が診察し頭部の創の縫合を行ったのですが、処置中に容体が悪化し私が呼ばれました。腹腔内出血がありすぐに手術室に運んだのですが、心肺停止となり、蘇生後に手術をしました。しかし、1週間後に亡くなりました。当時の日本は、外傷患者の標準的な処置/治療が確立されておらず、国内には標準的なコースもありませんでした。その後、私は香港でATLSコースを受け、半年後にオーストラリアのLiverpoolHospital Traume Officeに臨床留学しました。そこで私はDirectorのDr.SugurueからTraumatology(外傷学)の真髄を学びました。日本に帰国して、病院で外傷センターを立ち上げ、日本で始まったJATEC(医師向けの外傷コース)の1期生として参加しました。

―沖縄に来たきっかけを教えてください。

阿部 沖縄の北部地区医師会病院で救急ヘリを立ち上げるので手伝ってほしいという話があり、救急部の科長として沖縄に来ました。沖縄に来てから1年後に伊江村立診療所の応援診療に来ました。週1回、3カ月間の応援でしたが、終えた時に後ろ髪を引かれる思いでした。翌年から常勤の医者がいなくなるということを聞いて、このままでいいのかと思い、フェリーの中から当時の事務長の亀里さんに電話をし「もし、医者が来なかったら僕が行ってもいいですよ」と伝えました。そして、先ほどお話したように平成21年に伊江島に移住して診療所の所長となりました。

―伊江島でのやりがいや魅力を教えてください。

阿部 私は幼少期に徳之島で育ったので、伊江島で離島医療をしているという気持ちは全くないんです。自分が育ったところと似ているからでしょうか。村民の人柄というか、患者さんの家族とかいろんな人たちと接すると他人ではない感じがします。身内みたいな感覚になっているので、急患で夜中に起こされても嫌な気持ちになりません。
ここでの医療は私にとって魅力的でやりがいがあります。研修医教育もその一つです。離島医療は、医師としての基本的な心構えを学ぶ良い機会になると思います。患者を、病気を持った人ではなく、一人の人間として診る、診させていただく。その日に診断がつかなければ次の日も来ていただく。心や体が病む場合は必ず原因があります。その原因を取り除くために自分の持つあらゆる知識や技術を総動員します。そして責任を持ってその人を診ます。その経験はこれからの医師としての生き方に必ずプラスになると思います。

―毎日、お忙しいようですが息抜きの時間はあるのですか。

阿部 空手道や古武道、太極拳を村民に教えているのですが、それが息抜きになっています。今は3年前から始めた書道にのめり込んでいます(笑)。書道はすごく楽しい。医師になって30年以上たちますが常に緊張感を持って、慣れ過ぎないように、見逃しがないようにと心掛けています。

―最後に医学生にひと言お願いします。

阿部 人間性が問われる職業なので、学生時代は視野を広げて医学以外のことにもいっぱい勉強した方がいいですね。医学知識を学ぶのは試験のためでも自分のためでもなく、将来的に患者さんのために勉強するものです。患者さんの身になって考えられる医者になることが大事で、患者さんにとってそれが一番ありがたいと思います。患者さんがいろいろ教えてくれるので、そういう視点で患者さんを“診れる”医師になるための勉強が必要じゃないかと思います。学生時代に勉強しなかった私が言うのもなんですが(笑)。

伊江村立診療所・透析センター

 

●名   称/伊江村立診療所(伊江村医療保健センター内)
●所 在 地/〒905-0502 沖縄県国頭郡伊江村字東江前459番地
●施   設/鉄筋コンクリート造3階建
●延床面積/2,043.466㎡
●診療科目/総合診療(内科、外科、小児科等)および救急対応
●病 床 数/11床
●開設年月日/昭和35年(1960年)村直営で開設
昭和後期(60年代)診療所の老朽化で平成5年に医療保健センター創設