2013
06/15
過酷な現場でいのちと向き合う
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インタビュー
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海外
ドクターズプラザ2013年6月号掲載
ミャンマー人が自力で自立した生活を送れるように力を尽くす
巻頭インタビュー:国際医療 名知仁子氏(医師)
国際医療に携わり、ミャンマーという国と出会う
──大学病院を出て、国際医療に携わるようになったのはなぜですか?
名知 大学病院に勤務していたころは、業務に追われてすっかり疲弊していました。そもそも自分は医師に向いているのかとまで考えていました。28歳のときにまず人間としてどうやって生きていきたいのか、医師としてどうやって生きたいのか考え始めました。試行錯誤の結果、異業種交流会などに顔を出し、さまざまな業界・職種の方と交流しました。そして、社会というのは、
医師だけではなく、ほかのさまざまな職業の方によって成り立っているという、ごく当たり前のことに気づかされました。
それからいろいろな本を読み漁り、31歳の時にマザー・テレサの「もしあなたの愛を誰かに与えたらそれはあなたを豊かにする」という言葉と出会いました。これには感銘を受けました。マザー・テレサ自身は医者でも看護師でもないんです。なのに、人に対して奉仕活動を行って、このようなことを言えるのです。なんてすごいことなんだろう。私も目の前の困っている人ときちんと、その人々の命に真摯に向き合うような仕事がしたい……。国際医療の世界へと背中を押してくれたのは、この言葉との出会いがあったからこそです。
──設備が整った日本とは違い、途上国での医療活動は大変そうです。
名知 そうですね。ミャンマーでは、あまりにも暑いから、水風呂に入ろうとしても、すぐに入ることすらかないません。というのも、夏季は水不足なので水の配給は時間が決められているんです。ようやく水が配給されたと思ったら、最初は泥水が出てきます。アパートに設置されているタンクの底に泥がたまっているんです。最初は、泥水が出てくるなんて知らず、ガーゼでろ過せずに体を洗っていたので、1日で結膜炎になってしまいました。地方に行くと、水がない場所では、青空のもとで用を足さざるを得ず、尿道炎になってしまったこともありました。全身にぶわっとあせもができて、何事かと思ったこともありましたね。過酷な世界です。途上国の医療活動の98%は辛いことが多い。でも、残りの2%が自分に感動を与えてくれるのです。その2%があるから、私は国際医療活動を続けていこうと思うんです。
──その2%って何なのでしょうか。
名知 日本にいたままでは、到底経験できないような、強く心を揺さぶる経験がたくさんできるということです。何よりうれしいのは、患者さんの笑顔。そして、どんなときでもいわれる感謝の言葉です。医師として、人と向き合っているということを実感します。
一つ印象深い出来事があります。2008年にサイクロンがミャンマー南部を襲ったときに、支援活動のために村々をボートで回ったときのことです。ボートで移動するとなると、転覆しないように、医療品は最低限のものしか持って行けません。このような移動クリニックというのは、全ての家を一つ一つ回っていくのではなく、いくつかの集落から最もアクセスの良い地点を選んで訪れ、近隣の人々にそこに来てもらうような形式で医療活動を行っています。いくらアクセスがいい場所とはいっても、中には自宅から3時間も歩いてやってくる方もいるんです。そのような、はるばる来てくださった患者さんをいざ診てみると、最低限しか持ってきていない薬では治療できないことがあります。そんなとき、私たちは断腸の思いでこう言わざるを得ません。
「私たちはここに来たけれども、あなたの病気は治療することができません。ごめんなさい」
こんなことを言われて彼らはなんて言うと思いますか? それでも「来てくれてありがとう」と言ってくれるんです。同じ状況が自分の身に降りかかっても、私はきっと言えません。「あなたたち、何のためにここに来たの、私たちを診るためではないの!」と言ってしまうことでしょう。なのに「ありがとう」と言えてしまうミャンマーの人々は、本当にすごい。頭が下がるばかりです。
薬を持っていないからではなく、制度上の問題で目の前の患者さんを診察できないこともあります。国際医療活動は、プロジェクトごとに対象となる病気があり、それに対して支援していただいた方からの寄付金を使うシステムです。ということは、プロジェクトに当てはまらない病気の方の診療はできないんです。例えば、私がマラリアの治療のためのプロジェクトで診察を行っているときに、癌の患者さんがいらしたとします。医師としては、この方を治したいと思います。しかし、プロジェクトの活動内容に癌の治療が入っていなければ、治療ができないのです。ですから、プロジェクト外の患者さんの前で「すみません、私たちはあなたを診察できません」というしかないんです。とにかく、どちらも医師としては本当に辛い局面です。診察や治療ができないのは、こちらに薬がなかったり、プロジェクトの主旨に当てはまらなかったりするだけであって、患者さんご自身のせいではないわけですから。国際医療活動は感動もあれば辛いこともある。でも、それを強く実感できるから、私は続けているのです。
──数ある国の中から、ミャンマーで活動しようと思った理由は何ですか?
名知 ご縁があったからとしか言いようがありません。私が一番初めに国際医療団体から派遣されたのは、ミャンマーとタイの国境近くのタイ側のメソットという土地です。そのあと、ほかの団体からはイラク戦争の時に中東のヨルダンへ派遣されてイスラム教を学びました。そして、その次は国際医療団体で医療支援のないイスラム教の人々を対象にした医療活動を行うことになり、初めてミャンマーに派遣されました。その国際医療団体で派遣される国の70%はアフリカなのですが、私の場合はなぜかアジア、とりわけミャンマー隣国に派遣されたんです。
ミャンマーに何度か行くにつれて、私はこの国の魅力のとりこになりました。まず、ミャンマー人はとても礼儀正しいです。相手の方を敬う文化が脈々と受け継がれています。自然も本当に美しいです。星空を仰ぎ見れば、天の川が一面に広がっています。私が「ミャンマーが私の第二の故郷なんだ」と強く実感したのは、移動クリニック(*1)で舟に乗って村から村へと移動する途中で、きれいな真っ赤な夕焼けを見たときです。この地のために一生をかけて何かしたい、ここの人々のために自分は何が出来るのだろう……夕陽を見ながら、なぜかそう強く思いました。この思いが、ミャンマーでの医療活動の原点となっています。
移動クリニックでミャンマー人の医師と村々を廻って毎回彼らの医師としての高い能力に学ばせてもらいます。ミャンマー人の医師は、聴診器一本で的確に患者さんを診断し、治療をするんです。時には、日本では考えられないほど設備の整っていない診療所で、手術を行い、そして、患者さんは回復します。医療の原点にもどったと実感しています。彼らからは、医者とはどうあるべきか、患者さんはどうやって診るのかということを、一緒に活動しながら学ばせてもらいます。
(*1)医師らが数日ごとに村々を移動しながら診療する活動のことで、途上国での医療援助のほか、病院のないへき地や、災害援助の現場などでも実施されている。
栄養失調と貧困で多くの人が命を落としていく
──ミャンマーの方は、いったいどのような病気で悩んでいるのですか?
名知 ミャンマー人の主な死因は、マラリアと栄養失調です。栄養失調で亡くなるなんて、日本では信じられないかもしれませんが、ミャンマーでは下痢症で子どもがあっという間に亡くなります。衛生状態が悪いので下痢が起こりやすいのですが、基盤に栄養不良があると脱水症状を起こしてすぐに亡くなってしまうのです。
もう一つの死因であるマラリアは、大病院の入院患者の1/6が感染しているといわれるほど、ミャンマーではよくある病気です。マラリアは、ハマダラカに刺されて感染した後、高熱が出るのですが、そこでマラリア治療薬を飲めばほとんどの方が助かります。しかし、薬を飲まないと、菌が脳に至って亡くなってしまうのです。この、マラリア治療薬は、以前は、一錠が日本円にして100円です。赤ちゃんは1日1錠で3日間飲むので、だいたい300円かかりました。しかし、マンダレーというミャンマーの地方では、女性の月収が150円なので、300円の薬はなかなか買えません。ですから、薬を買えずに亡くなっていく方がたくさんいるのです。
──ミャンマーの医療事情はどうなのですか?
名知 慢性的な医師不足です。ミャンマーには医科大学が四つあり、そこを卒業して医師になる人は毎年約1500人です。ただし、以前は、すぐに医師免許を取得できるのではなく、3年間公立の病院で研修を終えた後にようやく取得することができました。
ミャンマーは健康保険制度がないので、医療費は全て自己負担です。お金のある人なら十分な医療を受けられますが、そうでない人はきちんとした医療が受けられません。地方では良心的な医師は、午前中に州立の病院で働き、午後は自分で開業した医院で村の人たちの診療をします。しかし、患者さんが薬代を払えないと、医師自身が薬代など治療費を負担することも多いのです。医師免許を取るために時間がかかる上に、医師として働いても家族を養えるぎりぎりの賃金しかもらえません。しかも、薬代は自分が負担することもあります。
──そのような状況を目の当たりにして、課題が見えてきたわけですよね。
名知 はい。やっぱり、病気の人を治すために、薬を出して治療するだけでは、根本的なところは何も解決しないと感じています。プライマリーヘルスケアといって、手洗いや歯磨きの習慣を浸透させるところからはじめないと、いつまでたっても病気になる人は減らないでしょう。薬を出して病気の治療だけをしても根本的な解決にならないことに気付かされます。栄養改善と病気の治療の2本立てが同時に行われなければ生きられないということです。
以前、栄養不良で痩せ細った赤ちゃんに母子保健で栄養を与えて適切な体重にするプロジェクトがありました。しかし、せっかく子どもが元気になって村に帰っていっても、すぐに栄養不良になってこちらに戻ってくるんです。そんな悪循環がなぜ起こるのかと考えたときに、それは村に食べ物がないからだと思い当りました。それで、村の人々が自分たちで食べていくことができるようなシステムづくりを考えないと問題は根本的には解決しないということに気付いたんです。
そこで、ミャンマー人の食糧不足をどうすればよいのか、東京農業大学の教授に話したところ、「それなら自分たちで食べる物を作ればいいじゃない」と言われました。確かに、ミャンマーの農業は主に稲作で、野菜などは売るためにしか作られていません。医療と自家消費できる作物栽培の菜園作りでミャンマー人の循環型の自立支援をしていきたい。それが、「ミャンマー ファミリー・クリニックと菜園の会」を設立したきっかけです。
現地のニーズに寄り添いながら自立の手伝いをする
──「ミャンマー ファミリー・クリニックと菜園の会」では、今はどのような活動をしているのですか?
名知 実はこの団体は、設立してまだ1年未満なんです。ミャンマーは2011年に民主化されて、法律がどんどん変わってきており、現地で活動するためにNGO登録をしなければいけなくなりました。当団体としては、活動場所の選定を済ませ、ミャンマーの保健省と折衝をし、これから提携を結んでNGO登録を行います。実際に活動を始めるのはそのあとになる予定です。
今はミャンマーと日本を行ったり来たりしながら、本格的にミャンマーで活動するための準備を行っています。ミャンマーでは政府との折衝や活動場所のリサーチを行って、日本にいる間は講演活動などを行いす。日本の人々にミャンマーという国をもっとよく知ってもらい、現地での活動への協力もお願いして回っているところです。
──やることがたくさんあるんですね。
名知 本当に、山積みです。まずは資金の調達をしないといけません。初期費用は最低でも600万円は必要です。これは母子保健などの手洗いのための石鹸や歯磨きなどを購入したり、移動するための車代。また、現地の人に処方する薬を全部無料にしようと思っているので、その薬代もかなりかかってきます。ですから、日本にいる間は寄付をお願いしたり、会員さんになっていただいたりします。
──ミャンマーの現在の活動の様子を教えてください。
名知 まずは現地のニーズを知らなければいけません。ですから、今はミャンマー人の医師を一人雇って、現地調査を行っています。いくら私たちが「よかれ」と思って活動を進めても、現地の方にとってその活動が本当に必要でなければ保健衛生活動も、母子保健も、菜園作りも決して根付かないからです。
しかし、難しいのは現地の方のニーズにどこまで応えるかです。たとえ彼らが必要だと言っても、それが本当に医者として与えるべきものだとは限りません。例えば、「頭痛がするのでCT検査をしたいです」と言ってくる患者さんがいるとします。しかし、その患者さんは本当にCT検査を取る必要があるかどうかは、医師が判断する必要がありますよ。お互いの意見を押し付けあっても決して納得のいく結果にはならないので、「なぜあなたは困っているんだろうね。それを解消するにはどうすることが必要なんだろうね」と、一緒に協働作業を行っていくことが必要になります。ミャンマー人が本当に必要だと感じて、自分たちの生活向上のため意志決定することができるようになってほしいと思います。
──今後はどのような活動を行う予定ですか?
名知 おそらく8月頃にはNGO登録が済んで、それからは現地に入って本格的に活動を始めることが希望です。私はほぼミャンマーに滞在して、3カ月に1回くらいの頻度で報告のために日本に帰って来ようと思っています。ミャンマーでは移動クリニックで現地の村を回りながら、本格的な手洗いなどの保健衛生活動を行う予定です。石鹸を配布し、その使い方を教えます。同時に村の人たちともコミュニケーションを取って、現地の方のニーズを調査しながら活動内容を一緒に決めていきます。
菜園については、私たちでモデル菜園を作り、農作物の栽培を行います。これについては、東京農業大学を3月で退職された先生を理事に迎えて、有機農法に対する知識を教えてもらったり、途上国での農業支援活動を行ったことのある東京農業大学のほかの先生を紹介してもらったりしながら、何とか形にしていこうとしています。現地の井戸ではヒ素が出るらしいので、それをどうやって解決していくかや、雨季と乾季で全然違う土地の環境をどうしていくかなどを一緒に考えていかないといけません。いずれは、現地の農業指導員も育成して、栽培技術の普及と定着も進めていきたいと思っています。種や肥料、農具の支援体制も作っていきたいです。
最初に活動を行うのは、ミャンマー南部のエーヤワディ地方というところで、2008年にサイクロンがあった場所です。しかし、エリア自体は広いので、ここをカバーするだけでも大変です。どんなに小さくてもいいので質の高い成功モデルケースを作って、ほかのエリアにも広げていけるようにしたいと思っています。ミャンマーでは平均寿命が65歳です。だから、自分が65歳になるまでに彼らが自立した生活を送れるようにすることを目標にしています。
──最後に、読者の皆様にひとことお願いします。
名知 私がこのような活動を行っていていつも頭に浮かぶのは、ジグソーパズルです。みなさんが各々ジグゾーパズルの1片になって、しっかりその立ち位置に立つことをし、そして皆で手と手を結んで繋がる。いろいろな立場や職種の方が手を取り合って、面白い社会を作り上げていきたいと思っています。これは28歳のときに感じた、社会は色々な人から成り立っているということと、同じだと思います。
国際医療に携わりたい方に対するメッセージとしては、国際医療の世界に入るのは、いくつになっても遅くはないということです。私自身もすごく遅咲きで、最初に現地に行ったのは39歳のときです。それでも、遅いと思ったことはありません。51歳で初めて現場に行った人もいます。人間というものは、自分に制限をつくるのは自分自身だと感じます。今からでも遅くはありませ
ん。興味があればぜひ、国際医療の世界に飛び込んでみてください。
東日本大震災の支援活動に携わって
医師 名知 仁子氏
2011年の3月に東日本大震災が起こった時は、とにかく何でもいいからできることをしたいと思い、4月末に石巻に行きました。私は海外医療や災害支援活動を行っていたので、多少のことには動じないと思っていたのですが、現地に着いたらあまりの壮絶さに言葉を失いました。あれは想像を超えていました。
圧倒されたのは、やはり一面に広がるがれきの山です。津波とは、なんと恐ろしいのかと思い知りました。私は気功をしているからかもしれないのですが、地面からバァーッと人の叫びのようなものが聞こえてきたんです。悲惨な現場に慣れているつもりだったのに、がれきの中に立つと涙が出てきました。
そこで思い出したのが、ミャンマーを襲った2008年のサイクロンのことです。サイクロンでも、震災と同じなのですが一瞬で集落がだめになってしまいました。基本的に家はココナッツの木でできているのですが、結局2年後に再度訪れたら村にちゃんと家が建っているんです。自然のものでできた家は、災害にあえば一瞬で壊れてなくなるけれど、2年後には地面に帰るんだなと思いました。それに比べると、石巻はがれきがある。コンクリートのような人工のものを使っていると、それを排除しないと新しいものは作れないんだと実感しました。
石巻では、津波によって被害を受けた、石巻市立病院で働いていた看護師さんたちと、私たちが一緒に近隣の避難所で医療にあたっていました。避難所の方々は「明日の子どもたちの運動靴はどうしよう」「自分も仙台の両親がいるけど、連絡がつかない」などと会話をしています。市立病院で被災したスタッフも似たような事情を抱えているのですが、悲しみと不安でいっぱいになっている気持ちを押し殺しながら医療活動を行わなければいけないんです。
石巻での支援活動のあとは、今は数カ月に1回ほどの頻度で、福島の子ども相談会を手伝っています。福島に行くだけではなくて、福島から東京などに移住された方の心のケアも行っています。被災された方が、一刻も早く元の生活を送れるよう、願うばかりです。