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看護師から広報担当へ

広報室のお仕事

佐藤 弘恵
社会福祉法人恩賜財団済生会支部東京都済生会東京都済生会中央病院
隔月刊2020年5月号掲載

新連載/広報室のお仕事(1)

はじめに

私は東京都港区三田にある東京都済生会中央病院で、広報室長をしています。と紹介すると、ほとんどの方は「病院ってPRしたらいけないんじゃないの?」と返してきます。PRが許されてもいないのに広報室って何するの? というわけです。それはその通りなのですが、基本的に許されていないからこそ、広報というセクションが必要ということも訴えたいのです。そうした、普段は飲み込んでいる病院広報への思いをつづらせていただこうと思います。

地域住民に寄り添い105年

当院が所属する済生会は、歴史が古く、明治44(1911)年2月に遡ります。時の明治天皇が当時の首相・桂太郎を御前に召され、「医療を受けることができずに困っている人たちに施薬救療の途を講ずるように」と勅語を発し、お手元金150万円を下賜されました。その後、桂首相は広く寄付金を募り、明治44年5月30日、社会福祉法人恩賜財団済生会が発足しました。

大正4(1915)年5月30日には、当院の前身になる済生会芝病院が開院し、初代院長に北里柴三郎が就任しました。戦後の昭和25(1950)年に東京都済生会中央病院へと改名し、現在に至っています。開院から105年、長らくこの地で住民の皆さまと一緒に時代の変遷を見てきた病院です。

当院は535床34診療科があり、港区唯一の救命救急センターを持つ三次救急医療を展開しています。高度急性期医療を主体としながら、一方で住まいや身寄りのないホームレスの患者さんを受け入れる専門病棟があり、施薬救療の精神を継承した医療を提供しているのが特長です。
約1,200名の正職員に加え、非常勤・委託を含めて総勢1,400名近い職員が働いています。2017年に14階建ての主棟の建て替えが終わり、真新しい建物の13階からは、そびえたつ東京タワーを見ることができ、東京のど真ん中にある病院だなぁと、いつもしみじみ感じます。

ユニークなキャリアスタートと驚きの人事

私が広報室へ配属になったのは、その主棟が建て替わった2017年3月でした。もともと、私は看護師で、20数年間、広報はもちろん事務系とは無縁でした。看護師としていくつかの病院で働き、当院へは2007年に入職。今日まで12年間お世話になっていますが、広報室への転身同様、当院での私のキャリアは、入職していきなり医療安全管理者を務めるという、とてもユニークなスタートでした。

通常の組織では考えにくい人事だと、今でも思っています。医療安全管理は感染管理とともに病院のクオリティーが評価される要の部門・部署です。そこへ、当院について全く情報のない私を医療安全管理者として任命する院長の判断には、後になって驚くばかりでした。当時はそれにも気付かず、何より医療安全管理者としてのベースをゼロから積み重ねていかなくてはならず、苦労の連続でした。しかし、慣れない私をいろいろな職種のマネジャーがサポートしてくれ、本当に感謝することばかりでした。その後、手術室、内科・外科病棟等で看護師長として経験を重ねました。

畑違いの広報室への異動は突然、決まりました。私は首を傾げるばかりでしたが、当時の事務長が当院での私のキャリアを眺め、病院をPRするには、その病院の医療を知っている専門職が適任だと判断されたようです。確かに医療安全管理者としてさまざまな職種の人と接する機会に恵まれ、職員研修会の講師として人前で話すことに慣れ、手術室、外科系、内科系の病棟では患者さんやご家族から直接お話しを聞くことができ、当院への顧客の印象を知る機会もたくさんありました。こういった経験は、病院のことを知っていただくという広報業務を行う上で、とても大きな糧になりました。さらに個人的なことですが、私はだれもやったことがない事に対して、興味があれば後先顧みず飛び込む勇気だけは人一倍あり、看護師からのキャリアチェンジには、周囲の師長仲間の心配をよそに、抵抗なく入っていくことができました。

このような経緯で私の広報室長の仕事は始まりました。ただ、当初は室長といえども名ばかりで、室員は私一人。病棟が建て替わったこともあり、これまでのPR媒体のリニューアル、ウェブサイトの改訂、取材の受け入れなど、経験したこともない業務が次々に押し寄せ、最初の2年間は立ち止まることも、振り向くこともできずに、駆け抜けた日々でした。一昨年秋からは、何とか1名増員され、現在2名体制で動いています。そんなヨチヨチ歩きの病院広報について次回からは具体的にご紹介したいと思います。

 

隔月刊2020年5月号掲載

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