2018

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弱さを知ったから強さを手に入れられた

  • 特別インタビュー

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15歳で全日本選手権4位となり、25歳でバンクーバーオリンピック8位入賞。27歳で世界選手権3位となり、日本最年長のメダル獲得者に。28歳、13回目の全日本選手権で初優勝。その会心の演技で切符を手にしたソチオリンピックで個人8位、団体5位入賞。摂食障害に苦しみながらそれを乗り越え、20代前半で引退する選手が多いフィギュアの世界で、29歳まで現役で活躍し続けた鈴木明子さんの努力の軌跡を伺いました。

ドクターズプラザ2018年1月号掲載

特別インタビュー/鈴木明子氏(プロフィギュアスケータ―)

自分を丸ごと受け入れて、一歩ずつ目指す未来へ向かいたい

できない経験から学んだ諦めないことの大切さ

内野 フィギュアスケートは、いつ、どのようなきっかけで始めたのですか?

鈴木 始めたのは6歳の時です。私の両親はいろいろな習い事をさせてくれたのですが、その中で強くやってみたいと思ったのがスケートでした。家の近くにスケートリンクがあって、そこでフィギュアの練習をしているお兄さん、お姉さんを見たんです。かわいい衣装を着て、クルクルと回っている。今のようにテレビでフィギュアが放送されている時代ではなかったので、初めて目にしたその光景がすごくかわいくて印象的でした。

内野 実際に習い始めて、いかがでしたか?

鈴木 私は運動神経が良い方ではなかったんです。上手にスケートをしている人を見て、自分もできるような気になるのですが、実際はそうはいかない。ジャンプを習得するのも時間がかかる方でした。周りがドンドンできるようになっても自分はできなくて、悔しい思いをしました。

内野 とても意外です。世界の大舞台で活躍された鈴木さんが、運動神経が良い方ではないなんて。

鈴木 その代わり「できるまで絶対やりたい」と思い続けていました。母親は私のことを分かってくれていて、一つ一つのことに時間はかかるだろうと見守ってくれていたんですね。私にとって、それがすごく大きかった。親が私のことを信じてくれる。だから諦めなければ、いつかは、できるようになると自分を信じてやり続けられたんです。努力したらできるようになっていく。そういうことを、できなかった経験から学ぶことができたかなと思います。

内野 目先の結果ではなく、鈴木さんを信じてプロセスを見守ってくれたんですね。親として見習いたいお話です。親はついつい自分の子を周りの子と比べたり、早くできることがすごいと思ってしまいがちなんです。子どもが大きくなってから、そんなことは無意味だったと気付くのですが……。

鈴木 そうですよね。私も中学生、高校生になってくると、多感で周りのことが気になって、どうしても他の人と自分を比べてしまいました。その一方で自分のスケートを認めてほしいという気持ちが出てくる。フィギュアスケートは、“表現”と“ジャンプ”で得点が決まります。私は表現が得意で、それこそが私のスケートなんだって思っていました。もちろんジャンプができない、技術がついていかないと表現も生きない。それは分かっているのですが、それでも私には表現があるんだという気持ちが強かったんです。

内野 そんなに若い頃から、自分のことを客観的に見て、理解している選手は少ないと思います。確かにダイナミックなジャンプは観客を湧かせます。でも私は、鈴木選手の演技を観て、表現の素晴らしさで魅せるフィギュアを知ったんです。フィギュアが好き、滑れるのがうれしいということが演技から伝わってきました。当時は摂食障害に苦しまれたということなど知らなかったのですが、何がこの選手をこんなに輝かせているのだろう、どういう経緯でここにいるのだろうと、すごく興味をそそられました。

鈴木 やっと復帰できて自分のスケートができるようになって……。根本的にスケートができるということが、すごく幸せなんだっていう気持ちのままに滑っていたからでしょう。

自分のスケートを求めるあまり、心と体が食べものを受け付けない

内野 摂食障害に苦しまれて、しばらくスケートをお休みして、そこからの復帰ということでしたね。今、摂食障害に苦しむ人がたくさんいます。鈴木さんはどのようにして克服されたのか、お話を伺えたらと思います。やはり、競技のための体重のコントロールが摂食障害のきっかけだったのでしょうか?

鈴木 そうですね。もともと体重のコントロールには気を配っていましたが、海外で戦うようになると、自分の体型がすごくコンプレックスになっていったんです。欧米の選手は手足が長くて、氷の上に立っただけでパッと伸びやかです。それに比べて、自分ってどうしてこんな体型なんだろうって……。でも手足はどんなに努力しても伸ばせないじゃないですか。だったら太りたくない。体重が増えれば、ジャンプでも足に負担がかかる、それが摂食障害のきっかけでした。

内野 女性は成長期に女性ホルモンが増えることで骨盤が発達し、体脂肪がつきやすくなります。この体型の変化が審美性を競う競技のアスリートにとってはマイナスに捉えられてしまうことがあります。鈴木さんもこうでなければというボディーイメージが強かったのでしょうか。

鈴木 理想的な自分のフィギュアスケートというものがあったので、完璧を求めていたんですね。摂食障害になる方には、完璧を追い求める方がものすごく多い。完璧を求めながらできないという葛藤に追い詰められていくんです。

内野 女性アスリートが陥りやすい「摂食障害」については、「無月経」「骨粗しょう症」とともにアメリカスポーツ医学会が「女性アスリートの三主徴」として警鐘を鳴らしています。過度な食事によるエネルギー摂取量の制限は、利用可能エネルギー不足の状態となり、無月経の引き金となります。無月経が続くことで骨粗しょう症を招くという一連の悪循環が、女性アスリートの健康管理上の問題点として指摘されています。

鈴木 摂食障害の苦しいことの一つに、なかなか理解されないことがあります。食べることって人間の基本的な欲求。あまりにも普通のことだから、できないということが理解してもらえない。食べたら治るでしょ。食べればいいじゃない。そう思われがちなんです。そんな当たり前のことができないから苦しくて、分かってもらえないからまた苦しい。普通に食事ができないと、外で普通に過ごせない。すると引きこもりがちになる。ますます周囲とコミュニケーションが取れず、気持ちが暗くなっていく。そういう悪循環です。

内野 食べ物を心と体が受け付けないわけですね。全く食べられなかったのですか?

鈴木 私の場合、食べて吐いてしまうという症状ではなく、食べ物や、食べることが怖いという感覚です。食べられるのは、豆腐や糖質の少ない野菜だけ。最初に食べられなくなったのはお肉です。今は糖質がダイエットの敵といわれますが、当時は肉や脂がだめというイメージ。本来ならきちんとバランスよく食べながら理想の体型を保たなければ意味がないのに、浅はかな知識だけで食べられなくなる。お肉については、鶏ならささみや胸肉にするとか摂食障害になる前から気を付けてはいました。でも摂食障害になってから、そういうお肉もだめになりました。だんだん食べられないものが増えていく。サラダを食べていたのに、ドレッシングがだめ。お米は食べられていたのに、それが何グラムか分からなければ食べられない。普通に考えたら、500㎖の水を飲んですぐに体重を測ったら、増えていて当たり前じゃないですか。それなのに不安でたまらない。1日に何度体重計に乗っていたことか。

母の覚悟に自分を受け入れ、暗闇に光を見つけられた

内野 そんな状態では、日常の生活をすることさえ難しかったでしょうね。

鈴木 体重が30㎏台になって、もうボロボロでフラフラでした。でも私、そんな状態でも外出先などで倒れたことが1回もなかったんです。それは、もともとの食生活が、ものすごく健康的だったからじゃないかって思っています。和食の料理人だった父が作る料理は、おいしいことはもちろん、素材にこだわった手作りで、自然に栄養バランスも取れていたのだと思います。父が料理を作る横にいて、お客さんに出さないお刺身の端の部分なんかをそのまま口に「あーん」って入れてもらっていました。小鳥みたいに口を大きく開けて(笑)。ファストフードやインスタント食品を食べる機会はなく、甘いものやお菓子も、ほとんど与えられなかった。おやつの習慣もありませんでした。だから今も、甘いものに対する執着はありません。母もフィギュア選手である娘を、食事面ですごくサポートしてくれていました。

内野 人間は育ってきた過程でおいしいと思ったものを、ずっと好む傾向があります。子どもの頃の食習慣がいかに大事か。そして、小さい時から食事の基本がしっかりできていたために、摂食障害になっても体がもって、骨も弱らなかったのですね。

鈴木 そのことはお医者様も本当に驚かれていました。こんなにフラフラなのに、倒れることもなく骨も丈夫だって。

内野 さすがにスケートは……。

鈴木 できませんでした。それでも練習に行こうとはしていたんです。でも電車に乗ってリンクに行くだけで疲れてしまう。滑るどころではなかったです。

内野 病院には行かれたのですか?

鈴木 精神科に連れていかれました。でも、自分では病気だということを認めたくない。認めてしまったら、自分の意志でここまで頑張って痩せてきたのに、それが悪いことになってしまう。それは屈辱的なことなんです。食べれば治ることが分かっている。でも食べ方が分からない。本当に、もうどうしたら良いのか分かりませんでした。身体がだんだん動かなくなって、一番大事なスケートもできない。それなのに、まだ痩せたい。服もブカブカなのに、鏡を見ても痩せていると思えない。それが摂食障害のすごく怖いところ。自分でコントロールできないんです。

内野 そういう状態から、どのように回復に向かわれたのですか?

鈴木 ついに入院しようと言われた時に思ったことは、そうなったらいよいよスケートができなくなる。選手生命が終わってしまう。それだけは嫌だ、ということ。それは生きがいを失うことであり、自分の大切なものを取り上げられてしまうことでした。お医者様からしてみれば、スケートのせいで苦しんでいるのに。やめれば楽になるのに、という気持ちだったと思います。でも私は嫌だった。ずっと母親に、それだけは嫌だと、スケートをやりたいんだと訴え続けたんです。そうしたら、とうとう母が「もういいよ」って。その時に母は覚悟を決めたんです。

内野 それは、鈴木さんの命に関わるということも含めての覚悟だった……。

鈴木 そうですね。もし何かあったら、あの時無理矢理にでも入院させていればと後悔するかもしれない。でも、全てを考えた上で、もうそれでいいと。それからの母は「ムリしなくていいよ。その代わり食べたいものを言いなさい。何でも買ってくるから。何でも作るから」って言ってくれて。その時の私を、全てそのまま受け入れてくれたんです。そのおかげで、私も自分を受け入れられるようになっていきました。それは私にとって、まだ生きていていいんだ、という答えでした。まだ氷の上に立っていいんだ。出口の見えないトンネルの中で、初めて光が見えた気がしたんです。誰かに認めてもらう。受け入れてもらうというのは簡単なようで、とても貴重なこと。特にその時の私にとっては、ものすごく大きなことでした。

内野 それからは順調に回復されたのですか?

鈴木 本当に抜け出せたと思ったのは3年後。18歳で摂食障害になりましたが、19歳の時には、レベルはどうあれ、試合に復帰していました。でも、仲間と楽しく食事ができるようになったのは21歳のころ。最初に食べられなくなったお肉をおいしく食べられるようになった時です。それまでは、見た目には普通でも、ずっと葛藤があったような気がします。

自分の体と対話。スケートができる喜びに感謝

内野 回復後、競技を続けている間の体重管理は、どのようにされていましたか?

鈴木 最初はチェックする必要もあったので体重計に乗っていましたが、何かのきっかけで、私は一生分体重計に乗ったからもういいやって思ったんです。それからは、年に2回のアスリートチェックの時しか乗っていません。

内野 それはすごい変化ですね。

鈴木 身体が動けばいいよねって。衣装がピッタリしているので、着て動いて見れば分かります。体重計に乗らなくても、数字が分からなくても、体調が良ければいいなと思っています。それでも、人と食事をすると「やっぱり健康的な食事のために気を付けているのね」って言われることが多いんです。違うんですどけね(笑)。好きなものを選んでいると、自然に健康的な食事になってしまうんです。

内野 それもご両親との生活の中で身に付いた、正しい味覚をお持ちだから。まさに栄養指導の到達点ですね。自分の体が分かって、このタイミングでこれを食べておこう。これは控えておこう。などと、自分の体と対話し続けているのですね。

鈴木 数字に捉われていると、また怖くなるような気がして。それよりも、体が重いな、見た目で太ったかなと思ったら動けばいいやと。食事はおいしく食べたいですから。我慢を始めてしまうと、また自分の中でスイッチが入ってしまう気がして……。だから緩くやっていこうと決めました。

内野 私はパラリンピック選手の栄養指導もしているのですが、車いすの選手では、自宅で体重計に乗れないという人もいます。そういう選手には体が重いな等の感覚を持ってほしいと思っているので、「体重計の数字に頼るのではなく、自分で分かるようになってほしい」と伝えています。常に自分の体と向き合う姿勢がアスリートには必要だと思います。

鈴木 私はしなくてもいい経験をしていますけれど、それがなければ自分の体のことを知ろうと思わなかったかもしれません。それに、摂食障害以前の私は、スケートをできることが当たり前でした。スケートは大好きでしたが、それができることに感謝はなかった。だからいろいろ欲もあったし、満足できないことも多かった。いろいろあって復帰してみて、やはり悩みはあるけれど、それでも結局は今、こうして滑れている。「それだけでいいじゃないか」と思えます。滑りたいのに滑れなかったあの時期。だけど今は滑れるんだ。幸せじゃないか。ジャンプの失敗がどうでもいいというわけではないけれど、それより滑れることが素晴らしい。どん底ともいうべき経験をして、弱さを知ったから強さを手に入れられた。そう思います。

内野 お話を伺って、鈴木さんの演技になぜこんなにも感動できたのかが腑に落ちました。滑れる喜びが力いっぱい伝わってきたんですね。

鈴木 ある意味、自分は1回死んだと思っているんです。それでも、私の場合はまだ生きるべきだといわれているから今の人生があると思う。ならば、スケートができることを、ものすごく大事にしなきゃ。人生も、今この瞬間があることも。だからその幸せを表したいと思いました。それが伝わり、受け取っていただけたとしたら、技術とかそういうものを超えた何かが出ていたのかなと思います。出そうと思っても、自分が経験したものでないと滑りには出てこないと思うんです。

見た人に喜んでもらえることが、自分にとってメダル以上の価値

内野 のびのびとした、楽しさや喜びが伝わる演技で世界を魅了し、そうして引退を迎えられた。引退を決めた時というのは、どのような心境だったのでしょうか。

鈴木 次のシーズンで最後にしようと思った時が怖かったですね。次のビジョンが出てこないままやめるのは怖かった。でも続けるのも怖かった。人間って、期限を決めずに頑張り続けるのはすごく大変だと思うんです。何メートル走ればいいか分からない。ゴールテープもない。そこで走れと言われるとどこでどうしたらいいか分からない。目標を叶える人って、自分がどうなりたいかが明確にイメージできている人なんだと思います。それが想像できないと、何をどう努力すればいいか分からない。私はあと1年と決めた時に、それが明確になったんです。オリンピックに行けても行けなくてもやめる。じゃあ自分がどんな風に引退したいのかって思ったら、やっぱりオリンピックに行って、ここまでやってきて良かったなって笑顔で競技を終える。客席はスタンディングオベーションで、って想像したら、今やるべきことが明確に見えてくる。だからつらいことも頑張れるんです。

内野 それからは、まさにイメージ通りに進んでこられたのですね。

鈴木 オリンピックでは思い描いた通りではなかったけれど、引退試合の世界選手権では、思い描いた通り。「ああ良かった」という、それだけだったんです。メダルは取れなかったけれど、ここまでやってきた意味は、このためだったんだなって心から思えました。私が本当にほしかったのは、メダルそのものではなく、私の演技を見た人に喜んでもらえることだったんだ、ということも、その時に分かりました。

内野 世界の大舞台で、こんなに楽しそう。この選手は緊張しないのかなと、いつも不思議でした。

鈴木 やらなきゃいけない時に完璧にやらなきゃ、と思うと失敗してしまう。それが弱いところなんでしょうね。過度に緊張してしまう。でもそれを越えてやるしかないと思えた時に、もうどうにでもなれという心境になる。そうすると、なぜかポーンと乗り越えられてしまうんです。完璧にしたいと思うから緊張もするし、そのせいで失敗したりもする。でも完璧な人なんていないはずです。肩の力を抜いて、まあいいかと思える部分を意識して持とうと思っています。競技では妥協してはいけない。それだけ競技を頑張っているんだから、あとはこれくらいでちょうどい
いやと思えてから楽になりました。できない自分は嫌い。完璧じゃないとだめ。そう思っているかぎり救いがないんです。全てひっくるめて、自分を受け入れてあげる。好きになることです。

内野 頭では分かっていても、なかなか難しいことです。

鈴木 弱い自分を見たくないですよね。本当は、私はこんなんじゃないと、蓋をしてしまいたい。でもそれも自分なんです。向き合うのってつらいんですよ。向き合ったら弱い自分が目の前にいて、「何でそんなに弱いの。だめじゃん」。そう言いたくなるところを、取りあえず弱い自分と強い自分が並んで、一緒に進もう。そうやって弱いながらの進み方を見つけてきたのかなと思います。私は強い自分と弱い自分と、手をつなぐという言い方をしていますが、カウンターのように、対面ではなく、横並びになるんです。

内野 栄養、メンタル、トレーニングの技術。全部が見えている人はなかなかいない。鈴木さんの未来には、たくさんの可能性が広がっていると思います。今後どのような活動をしていかれますか?

鈴木 今、講演という形で自分の経験を伝えているのは、アスリートだけでなく、いろいろな人に向けてヒントになるといいなという想いからです。みんな、アスリートである前に人なんですよ。本当に無理をして自分の人生をかけているけれど、命や心をなくしてはだめ。命あってこその競技だと。そこを忘れてほしくないなと思います。そして、それは全ての方々に言えることだと思います。自分に引き出しがまだあるのなら、いろいろやってみたい。自分では分からないことも、周囲の人が新しい世界から声を掛けてくださる。やったことがないことも一生懸命や
ってみたいですね。そして同時に、しなやかに生きたいと思います。私は鉄の棒のように強い人間ではない。いろいろな人の意見を聞いて、いろいろな経験をして、しなっても折れないこと。自分の意志で戻ったり、必要があれば変わったりしていける、そんな風になりたいです。

■プロフィール


鈴木 明子氏

6歳からスケートをはじめ、15歳で全日本選手権4位となり注目を集める。10代後半は体調を崩し、大会に出られない時期もあったが、2004年に見事復帰。2009〜2010グランプリシリーズ(中国)で初優勝。同年グランプリファイナルでは3位、全日本選手権では2位となり、バンクーバーオリンピック代表となる。バンクーバーオリンピックは8位入賞。2012年、世界選手権で銅メダルを獲得。27歳での世界選手権メダル獲得は、日本最年長となった。ソチオリンピック代表選考を兼ねた2013〜2 0 1 4 全日本選手権では、初優勝。ソチオリンピック代表となる。オリンピック2大会連続の8位入賞。現在はプロフィギュアスケーターとして活動。また、テレビなどメディアで解説を行うほか、講演会でも活躍中。

内野 美恵氏
博士(学術)・管理栄養士・公認スポーツ栄養士。東京家政大学ヒューマンライフ支援センター准教授。東京都食育推進委員会委員。日本障害者スポーツ協会日本パラリンピック委員会医科学情報サポート栄養担当。

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