2016

01/16

“志”あるところに道ありき

  • インタビュー

  • null

1964年の東京オリンピック。「東洋の魔女」と呼ばれた女子バレーの活躍を記憶されている方はどのくらいいるだろうか。再び東京にやってくるオリンピックを心待ちにする今、女子だけでなく男子バレーも世界と肩を並べる存在となった。山本隆弘さんは、その立役者の一人。日本待望の長身サウスポーとして期待を一身に背負い、応えてきた山本さんに東京家政大学ヒューマンライフ支援センター准教授で管理栄養士の内野美恵先生が聞いた、健康管理や強い心身を保つポイントとは。

ドクターズプラザ2016年1月号掲載

特別インタビュー/山本隆弘氏(バレーボール解説者)

準備した以上の結果は出ない。精一杯練習したら、あとは無心で臨みたい

部員二人のバレー部で魅力にはまった中学時代

内野 身長201㎝とのことですが、2m以上の人とお話するのは初めてで、思わず見上げてしまいました(笑)。いきなりこんな質問をして申し訳ないのですが、靴のサイズはおいくつですか?

山本 30㎝です(笑)。

内野 30㎝! 普通のお店にはないですね。子どもの頃から大きかったのですか?

山本 小学生の時は飛び抜けて大きいというほどでもなかったのですが、中学校の3年間で31㎝、一気に伸びました。

内野 ご両親も背が高いのですか?

山本 父は180㎝、母は170㎝あります。

内野 やはりご両親とも高いほうなのですね。バレーボールを始めたのは、背が高くなったからですか?

山本 いえ、小学校では野球とサッカーをしていて、中学校では最初は陸上部に入ったのですが、中1の秋に友人に頼まれてバレー部に入ることになったんです。3年生が抜けたらその友人一人になっちゃって、「このままじゃ廃部だから、とにかく入ってくれ」と言われて……。それまでバレーをやったこともなく、やろうと思ったこともなかったのですが……。

内野 最近は「ハイキュー!!」(集英社週刊少年ジャンプに連載中の男子バレーボールマンガ)の人気でバレーボール人気も高まっていると聞きますが、それでも男子バレー部には部員が少ないという学校が多いと聞きます。

山本 そうなんです。女子はあっても男子バレー部はない学校もありますし。バレーボールの魅力を伝えることで、そういう状況を変えていきたいですね。

内野 山本さんの中学校も、危うく廃部のところを山本さんの入部で存続できたわけですね。

山本 でも僕が入って部員二人ですよね。顧問の先生もいないし、何をどうして良いかも分からない。取り敢えず体育館に行くと、コートは女子バレー部に占領されている。ボール1個持ったままフリーズ状態ですよね(笑)。仕方ないのでステージの上で、女子の練習の真似から始めました。とはいえ二人なので、パスくらいしかできなかったんですけどね。

内野 そんな状態から、どのようにバレーに夢中になっていったのですか?

山本 部員が一人、また一人と増えて、いつの間にか8人になったんです。それで2年生の秋の新人戦に出ることになり、初めてバレーボールのコートで試合をしました。1個のボールを6人で、できないながらも必死で球を追いかけたのですが、結局1点も取れませんでした。けれど、何だかそれが凄く楽しかったんです。

内野 その試合がバレーボールに魅せられるきっかけとなったのですね。

山本 とはいえ、強いチームというわけでもなく、「卒業までには、何とか女子バレー部には勝ちたい」と言っているような状態だったので、このままバレーを続けていくという強い気持ちのようなものは特になかったです。

内野 その後、高校でもバレー部に入られたんですよね。

山本 身長が高くなったせいか、地元ではバレーで有名だった高校(鳥取商業高校)の先輩に誘われて、中学3年の頃から土日は高校で練習に参加させてもらっていました。そんな流れで自然とバレーを続けた感じですね。ここまで来れたのは、高校1年生からレギュラーで使ってくれた先生のお陰だと思います。

エースの責任と日の丸の重圧エースの責任と日の丸の重圧闘い続けた代表時代

内野 努力する姿勢と、その結果身に付けた実力が先生の目に留まったのでしょうね。長身のサウスポーとして高校でも活躍し、大学に進学されて日本代表に選ばれますが、その知らせはどこで聞いたのですか。

山本 学生選抜で台湾に行ったのですが、空港に着いた瞬間、何人かが別室に呼ばれて書類を渡され「名前を書け」と。それが全日本の登録用紙でした。

内野 有無を言わせない感じですね(笑)。そのまま2003年のワールドカップでベストスコアラーとMVPをダブル受賞され、「世界が認めたニッポンの大砲」と呼ばれるわけですね。それだけ聞くと順調な選手生活とも思えますが、その後、2年間、日本代表を離れた時期がありましたね。

山本 2004年のアテネオリンピックでは、必ず予選突破と期待され、注目されていた中で結果が残せなかった。自分には日の丸を背負う資格がないのかな、バレーを辞めようかなと考えるようになりました。2005年に植田監督になってからも代表に呼ばれたのですが、その時は自分の中で「もう日の丸をつけていい人間ではない」という想いのほうが強く、代表入りを辞退したんです。そうしたら、監督がオポジット(※別名:スーパーエース)という僕のポジションは必要ないという戦術を取ることになり、レシーブ専門の選手を入れることになりました。自分のせいで今後このポジションがなくなるのは、後輩たちに申し訳ない。オポジットというポジションを確立したいということで、監督と話し、「できるならば、もう一度代表で闘いたい」と伝えて復帰させていただきました。

内野 「日の丸を背負う」という言葉が印象的でしたが、やはりそのプレッシャーの大きさは物凄いものなのですね。

山本 いや〜、重たいですね、やっぱり。左胸に日の丸をつけるというのは。

内野 「勝っても負けても山本」と言われる中で、そのプレッシャーを背負いながら、2006年には世界選手権でベスト8入りの原動力となられました。そして2008年の北京オリンピック。見事予選を突破して出場を決めた時は、どのようなお気持ちでしたか?

山本 4年前のアテネで結果を出すことができず、代表もバレーも辞めようと悩み苦しんだ中で、もう一度あきらめずにやってきた。そこで結果を出すことができ、嬉しいというよりは安堵の気持ちで一杯でした。みんなは泣いていたけれど、僕は泣けなかった。責任を果たすことができたという想いの方が強かったです。

内野 特に印象に残っている試合はありますか?

山本 難しい質問ですが……、2002年のアルゼンチンで行なわれた世界選手権かな。最後の試合で先輩がセンターに入ったので、「全部僕に上げてください」と頼んだんです。そうしてフルセット戦って勝った。例えばスパイクの決定率で50%という数字を残したとしても、試合に負けたらゼロです。「勝っても山本、負けても山本」と言われる中で、僕が覚悟を決めたことをチームのみんなが認めてくれた。そして結果を出せた。その時のことは強く心に残っています。

内野 チームプレーではありますが、個人個人のプレーはもちろん、覚悟も重要なのですね。

山本 代表という場では特に、チームとして結果を出さなければいけない。けれど、個人として結果を求め、結果を出していかなければ、全体での結果にもつながらない。そう思って、自分にボールを集めてくれるよう頼みました。

内野 それだけ責任も重くなりますが……。

山本 そうですね。でも性格的にはそういう状態が合っているのかもしれません。

内野 ストレスはどのように解消していらっしゃいましたか?

山本 特別にストレス解消というのは考えてなかったような気がします。バレーボールって、試合のスケジュールが過酷なんです。10日間で7試合とか。夜試合をして食事をすると11時くらいになってしまう。それからトレーナーに体を調整してもらいますが、僕はチームのトレーナーの他に自分のトレーナーもつけていたので、じっくり調整すると午前3時くらいまでかかるんですね。そこから寝て、次の日は午前中からトレーニング。そういう生活が続くので、日々を乗り切るということに全力を尽くしていたのだと思います。

内野 厳しい試合の後なのに睡眠時間は短いですね。

山本 試合中は短いです。睡眠時間を犠牲にしても、体の調整が必要なので。その代わり、試合の時期ではない時は、しっかり睡眠を取っていました。

内野 試合の時などの特別な決めごと、いわゆるルーティンというものは何かありましたか?

山本 全然ないです。試合だとか変に意識し過ぎると体が硬くなります。練習した以上の力を試合で出せることはないので、日々の練習を信じて無心になれたほうが良いと思っています。

内野 試合中、うまく流れに乗れないような時もあったと思います。チームの大黒柱として、そういう時をどのように乗り切ってこられたのでしょうか。

山本 「このままいくと負けてしまう」と感じる時はありましたね。だいたいが終盤ではなく、10点から16点の間くらいです。いったんタイムを取って作戦会議をするなど、落ち着いたり気分を変えたりできるようにしていました。個人的には、周りが倒れようがどういう状況になろうが、自分だけは立ち続ける。そういうメンタルの強さが必要だと思います。

重なる故障と付き合いながら食生活の見直しと体調管理を

内野 常人には計り知れない重圧と向き合いながら、同時にケガとの闘いも続けていらしたと聞いています。

山本 もともと肩は弱かったのですが、膝の半月板が割れて手術したり、とにかくいろいろありましたね。

内野 練習の厳しさやプレッシャーとは別の辛さだと思いますが、どのように乗り切ってこられたのでしょうか。

山本 僕にとってはリハビリが一番苦痛なんです。なので、いかにリハビリの期間を短くするかを考える。例えば膝の手術の跡は、翌日から松葉杖なしに歩いていました。軟骨が割れて膝がロックする状態だったものを、引っ掛かりを取ってもらって膝が動くようになった。動くのだから、あとは痛みに耐えられればトレーニングできる。

内野 お医者様に止められたりしませんでしたか?

山本 「やり過ぎるなよ」とは言われていたので、自分で調子を見ながらやっていました。

内野 肩に関してはどうしていたのですか?

山本 もともと弱かった肩を酷使していたので、肩が全く上がらないような状態になったこともありました。手術を勧められましたが、僕に必要な手術をして選手に復帰した例がないと聞き、トレーニングとリハビリで地道に治す道を選びました。ボールの打ち方も工夫するなど、自分なりにできる形でこの肩と付き合ってきました。

内野 食事の管理などはどのようにされていたのですか?

山本 きちんと管理するようになったのはプロになってからですね。トレーニングをしても治療をしても、なかなか思うような効果が出ない。栄養士さんに相談して、そこからは非常にシビアに管理するようになりました。ご飯を抜いて完全タンパク質という時期もありましたし、フルーツを大皿で食べてエネルギーを摂ったりしていた時期もありました。

内野 ベストコンディションを保つための体重管理はどのようにされていましたか?

山本 僕はもともと、この身長で80㎏しかなくて細過ぎでした。どれだけ食べても太らなかったんです。体脂肪は8%台。トレーニングをしっかりやって、好きなだけ食べても太れない。栄養士さんに見てもらったら「好きな時に好きなものばかり食べているから」と言われました。ご飯が好きで炭水化物がメインでしたから。

内野 アスリートにとって糖質の多いご飯がメインの食事というのは決して悪いことではありませんが、主菜となるおかずが少ないと、たんぱく質や脂質が少なくなるので、必要なエネルギーが十分に摂れない食事となってしまいます。主食(ごはん、パン、麺などの糖質)、主菜(肉・魚・大豆などのたんぱく質)、副菜(野菜・海藻類などのビタミン・ミネラル)、果物(ビタミンCや食物繊維)、乳製品(カルシウム)といった五つの食品群が揃った食事であることが大切です。

山本 トレーニングや試合で体重が落ちますよね。1試合で3㎏くらいは落ちますから。そこで正しい栄養を摂らないと、なかなか戻らない。すると、パフォーマンスが落ちる。悪循環です。食べる量だけでなく、食べるものが大切なんですね。

内野 アスリートはエネルギーの消費量が多いですから、3食では必要量がまかなえないことが多いので補食が大切になります。試合中の補食はどうなさっていましたか?

山本 学生時代は何も考えていなかったですね。水分を摂るくらい。管理栄養士さんに見てもらうようになってからは、ゼリー食やバナナを摂るようにしました。食事を改善したので、引退する時には98㎏までなりました。体脂肪は9.7%くらい。

内野 バレーは試合時間が長いですから、水分補給はもちろん補食は絶対に必要な食事の一つと考えることが大切です。

山本 1999年にルールが変わってからは、だいたい2時間40分くらいですが、それまでは本当に長かったです。

内野 山本さんが経験した一番長い試合は?

山本 学生時代に6時間の試合をしました。スパイクを150本打ちましたが、本当にやばかったです(笑)。次の日は、ほとんど試合になりませんでした。

内野 サーブ権がないと得点にならないサイドアウト制でしたものね。現在はラリーポイント制にルールが変わり試合時間が短縮されました。試合の戦略がIT化して、監督やコーチがタブレットを見ている姿が定番になりました。データが重要視されているようですが。

山本 そうですね。アメリカやイタリアでは2003年頃から試合の分析をするアナリストを導入していたようです。日本ではアテネの後からかな。

内野 データからは何が分かるのですか?

山本 「この選手にサーブを打たせると、こっちの確率が上がり得点率が上がる」などと予測がつくので、面白い面はあるでしょう。でも、数字にとらわれ過ぎると、スポーツならではのライブの良さを見逃してしまいそうな気もします。

「個人として結果を求め、結果を出していかなければ、全体での結果にもつながらない」

日本代表から五輪出場へ指導者としての夢、高まる

内野 2013年、本当に惜しまれながらの引退でしたが、決意に至るまで、どのような想いがあったのでしょうか。

山本 僕たちの場合、オリンピックが一つのサイクルになります。ロンドンが終わった時、次のリオに対してのビジョンが見えなかったんです。いよいよ肩が限界で、サーブのトスも上げられないような状態だったことも大きいですね。肩が使えないから指先だけでトスを上げると、前に行ったり後ろに行ったりする。もうダメだなと思って、4月には「この1年で辞めます」とチームに伝えました。

内野 ファンにも非常に親しまれていた山本さんですから、迷いもあったと思いますが。

山本 生涯現役という想いもありましたが、肩に関しては、そろそろ休ませてあげたほうがいいかなという気持ちが強かったです。「よくここまでもってくれたな」と。

内野 引退した今も、バレーボールの解説や小学生のバレーボールカップ開催など、普及活動に積極的に取り組んでいらっしゃいます。

山本 僕はいわゆるスポーツエリートではありません。ふとしたきっかけでバレーを始め、出会いによって続けてきた。いろいろな経験を楽しんだし、重圧にもがき苦しみもした。そうした中で、引退しても様々な形でバレーボールに貢献できるのは幸せだと思います。指導者としては、厳しくするのではなく、楽しいと思える環境づくりを心掛けたい。本人が楽しいと思えれば、自分から次はこうやろう、ああやろう、もっと頑張ろうという気持ちが湧きます。

内野 ご自身がバレーを楽しんだ中学時代の経験が生きているのでしょうか。

山本 そうですね。僕だけではなく、トップに上り詰める選手というのは中学や高校からバレーを始めたという選手が少なくないんです。小学校から厳しい練習を続けさせられると、高校に入って辞めてしまったりする。本人に辞めたいと思わせるのではなく、楽しい、続けたい、強くなりたいと思わせることができると良い。自分が教えた生徒は、みんな日本代表に入ってオリンピックに行ってほしいですね。

「志」で達成した数々の成果。引退後に出会った楽しみ

内野 少しプライベートなお話を伺いたいと思いますが、子どもの頃、食事に関してご両親から言われていたことなどありましたか?

山本 うるさいことは言われませんでしたが、「骨を強くしろ」ということで、牛乳はよく飲んでいました。お茶代わりに毎食飲んでいたかな。親は野球をやらせたかったみたいで。

内野 食べる量はいかがでしたか?

山本 とにかく米をめっちゃ食べていました。どんぶり3〜4杯は当たり前、みたいな感じで。

内野 お気に入りのご飯のおともは?

山本 好き嫌いが特にないので、何でも。おかずなしのご飯だけでもいけていました。祖母が家で作っていた米を自宅で精米して食べていましたから、ご飯がうまい!

内野 まさに銀シャリですね。

山本 いまだに一番おいしいご飯は、自家製米の自家精米です。

内野 現在は二人のお子さんのパパですが、お子さんにもバレーを勧めたいですか?

山本 何をして欲しいというのはないですね。今はゴルフと体操、水泳をしていますが、何でも良いので好きなことを見つけて楽しんで欲しい。それを応援したいです。ただ、やはりスポーツには親しんで欲しい。スポーツ選手になってくれたら嬉しいという気持ちはありますね。

内野 ご趣味は?

山本 ゴルフが好きです。1年に4回、ぎっくり腰をやったことがきっかけなんですけどね。普段、体をずっと左に回転させてばかりいる。逆回転に体を使うことをしたらどうかというトレーナーの発想から、ゴルフはどうだろうということになりました。いざやってみると、初めはもちろん下手なのですが、コースを回っていると、1球くらいは良い球を打てることがある。その気持ちの良さにハマりました。歩くから健康に良いし、コースを回っている間は、チームだけの世界が構築できる。そういうところも好きですね。

内野 引退後に自転車も乗り始めたそうですが。

山本 先輩である益子直美さん(元バレーボール全日本選手)に、ずっと誘われていたんです。でも、普通の自転車は膝が当たるので乗りづらく、自転車に良いイメージがなかった。それで断り続けていたのですが、引退すると断る理由がなくなってしまう。そこで「僕のサイズの自転車があればやります」と言ったら、メーカーを探してきて特注できることになりました。そうなったらやるしかないですよね。

内野 日本で一番大きいサイクリストでしょうね(笑)。

山本 そうかも知れません。慣れるまでは怖かったり、転んだりもしましたが、今ではこんなに楽しいものはないと思ったりもします。バレーも試合で全国に行きますが、会場とホテルを行き来するだけ。出掛けると言ってもせいぜいコンビニくらいです。自転車は知らない街に自分から出て行きます。人にも会うし、流れる景色の中、今まで見たことのない物に出会います。休憩所では、土地の人たちとしゃべったり、名物をいただいたり。新鮮なことばかりです。

内野 ロードバイクの大会にも参加されているそうですね。バーレーボールというチームプレーからロードバイクという個人プレーに変わったわけですが、共通点はありますか。

山本 ロードバイクのイベントによってはチームプレーの要素もあるんですよ。この区間は誰が先に行って引っ張るとか、役割分担がきちっとあって、それぞれが全力でそれを果たす。楽しみは違っても、競技としての共通部分は結構あります。

内野 最後に、山本さんの座右の銘をお聞かせ願えますか。

山本 多くの方にいろいろな言葉を頂きましたが、どれが自分に合っているかなと考えた時、同じ中学校出身の山下佐知子さん(バルセロナオリンピックで4位入賞のマラソン選手)の言葉が心に浮かびました。「志あるところに道ありき」という言葉です。どういう意味なんだろうとずっと考えながら、自分なりに解釈してみました。それは、やりたいことがあれば道はできてくる。どんな大きな夢でも、自分が夢として描けばそこに至る道はある。道があるのだから辿って行けば良いというものでした。それからは、サインや自身のブログにも「志」の一文字を入れています。志があったから北京オリンピックにも行けたのかなと思います。引退した今も、指導者としての志がありますよ。

「主食、主菜、副菜、果物、乳製品といった五つの食品群揃った食事であることが大切です」

■プロフィール

山本 隆弘 氏

バレーボール名門校・鳥取商業高校で、1年目からレギュラーを獲得。日本体育大学、松下電器産業株式会社(パナソニックパンサーズ)にてバレーボールのキャリアを歩む。在学中の2000年4月に全日本デビュー。2003年のワールドカップでは2mの長身から放つ驚異的なスパイクで、ベストスコアラーとMVPを獲得。日本のエースとして活躍した。その後、2年ほど日本代表から離れるが、2006年に代表復帰。2008年にはチームを北京オリンピックへ導いた。現役引退後、バレーボールの解説や普及活動、メディア出演等で活躍している。

 

内野 美恵 氏

博士(学術)・管理栄養士・公認スポーツ栄養士。東京家政大学ヒューマンライフ支援センター准教授。日本障害者スポーツ協会科学委員会委員。日本パラリンピック委員会医科学情報サポート栄養代表。車椅子の子どものスポーツ支援をするNPOバラエティクラブジャパン理事。