2013

08/23

妄想や幻覚はそれとわからない?

  • メンタルヘルス

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西松 能子
立正大学心理学部教授・博士(医学)、大阪医科大学医学部卒業後、公徳会佐藤病院精神科医長、日本医科大学附属千葉北総病院神経科部長、コーネル大学医学部ウェストチェスター部門客員教授を経て現職日本総合病院精神科医学会評議員、日本サイコセラピー学会理事、日本カウンセリング学会理事、現在あいクリニック神田にて臨床を行う。

ドクターズプラザ2013年8月号掲載

よしこ先生のメンタルヘルス(17)

精神障害の労災認定の中に「業務による心理的負荷評価表」

いじめの定義

人事やコンプライアンス室への訴えの中には、時に事実無根の訴えがあります。訴える当の本人は、「これは現実に起こっていることだ」と確信していますが、よく調べてみると事実ではなく、周囲も巻き込まれている場合があります。妄想や幻覚と聞くと、周りの人々はそれとすぐ気付くはずと思われるかもしれません。「上司から仕事ができないと責められている」「女子社員から陰口を言われている」「職場でいじめにあっている」などと友達から訴えられたら、皆さんはどう受け取られますか?

実はいじめの定義が平成19年1月にそれまでとは変わったことをご存知ですか。文部科学省が、いじめかどうかの判断をいじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底した結果、子どもがいじめられたと思ったら「いじめ」と判断する方向へ施策が転換されました。つまり極論すれば、内的真実(その人がどう思ったか)がすべてとなり、現実に何が起こったかを問わないことになったのです。職場の「いじめ・嫌がらせ」も従来この判断の方向に従ってきました。しかし、学校以上に現実の利益が葛藤する現場である職場では、問題はそう容易ではありませんでした。平成23年12月には、事実としての「出来事」が客観的に認められない一方的な訴えを、いかに内的真実とはいえ、職場のいじめ・嫌がらせとして認めるのは無理があると厚生労働省は考えるようになりました。なお文部科学省のいじめに関する定義は変更されてはいませんが、学校のいじめに関しても、聞き取りやアンケート調査など客観的な事実を聴取する方向へ状況は大きく転換しています。

実は「上司から仕事ができないと責められている」「女子社員から陰口を言われている」「職場でいじめにあっている」という訴えが客観的な事実であるか、単にそう感じているだけなのか、判別するのはそう容易ではありません。精神医学の世界では、周りの人たちが聞いていない声を聞いたり、事実ではないことを考えたりすることは、そう珍しいことではありません。悪口を言われたり、噂されたりしていると確信している人々に、周囲の人が巻き込まれることもしばしばあります。幻聴を聞いたり、妄想を抱いたりしている人は、今聞いているこの声を幻聴と判断しているわけではありません、今抱いている考えが妄想だと考えているわけではありません。それらがまさに現実であると実感しています。

軽度の心理的負荷Ⅰ

客観的事実と内的真実の間の齟齬を埋めようとする試みが実社会の中で始まっています。平成23年12月には、厚生労働省から「精神障害の労災認定」の中に「業務による心理的負荷評価表」が作られました。例えば、退職の意志がないことを訴えているにもかかわらず恐怖心を抱かせるようなやり方で退職を強要されたという具体的な出来事があれば、「最も重大な心理的負荷Ⅲ」と判定されます。不慣れな職場で転居を伴うような配置転換が行われた場合は、「中程度の心理的負荷Ⅱ」と判定されます。早期退職制度の対象として告知され、代償措置が組織的に行われた場合は、「軽度の心理的負荷Ⅰ」とされます。セクシャルハラスメントについても同様に、身体的接触を伴うセクシャルハラスメントが継続して行われたり、断続的でも会社に訴えても適切な対処をしてもらえなかったりした場合は、「最も重大な心理的負荷Ⅲ」と判定されます。また、職場内に水着姿の女性のポスターなどが掲示されている場合は、「軽度の心理的負荷Ⅰ」とされます。このように、さまざまな具体的な出来事について心理的負荷の強度が定められ、事実関係が確認されます。認定される事実関係が確認されない場合には、個体側の原因が検討されることになるでしょう。

各個人には、さまざまな事情で幻覚妄想を生ずることがあります。職場で最もよく遭遇するのは、統合失調症という病気が発症した場合でしょう。入社以来一生懸命働いていた若い社員が何となく元気がなくなり、仕事の能率が落ちてきて、数カ月がたった頃、急におどおどと怯えた様子が見られるようになりました。時々体調不良を訴え、休むようになりました。ある日、上司に「職場に行くと皆が噂していますが、僕は何もしていません」と電話がかかってきました。上司が詳しく話を聴くと、どうやら自分が大きな罪を犯していると噂されていると思っているようです。上司は「そんなことはない」と説得しましたが、頑として聞き入れません。上司は、出社して健康管理室に行くようにと指示しましたが、それ以来出社しないまま退職することになりました。幻覚妄想が自分自身に生じてきた時、「幻覚妄想である」と自分自身に教えるのはとても困難なことです。皆さんのこころの中の思いを具体的な出来事と照合されますように。