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受け入れられる死と受け入れられない死

診療日誌

愛知県

灰本 元
医療法人芍薬会 灰本クリニック 院長 
ドクターズプラザ2019年5月号掲載

診療日誌(3)

内科医や外科医は開業医でも勤務医でも多くの死に直面している。医師として関わる死はおよその予測が立つし、心理的な距離もそう近くはないので長く通院している患者なら死後を話題にする余裕さえある。一方、心理的距離が近い場合は医師といえども厳しい現実にうろたえる。80歳男性のAさんは進行直腸がんと診断されたが、釣りも温泉にも行きたいし、将来子供に迷惑を掛けたくないという理由で1年前に手術を断った。当院へは高血圧と糖尿病で20年前から通院している。

「もう、あれから1年もなりますねー」
「先生の薦めもあって断って良かった。釣りも温泉にも行っているし人生楽しくやっています」
「先日、奥さんが治療に来て、それが話題になりましたよ」
「あれは未だに少し後悔しているみたい」
「そのようですね。将来が心配そうでした」
「でも、先生、心配せんでもオレはぜんぜん後悔していないよ」
「そのようですねー。私も良かったと思っています。でもがんは今は良くてもいつ急に悪くなるとも限らないので、元気で頭もしっかりしている時に奥さんや子供さんたちといろいろ相談したらいいかもしれませんね」
「オレがあの世にいった後のことかい?」
「そうですね……」
「そうだな、正月に息子たちも来るだろうから、その時にでも話してみるよ」

Aさんの中年期はちょっとトゲがあったが、今は家族にも私にもたいそうまろやかになった。今から振り返るとまろやかさを奥に隠した中年期だったのではないか。Aさんも私が在宅で看取るに違いない。Aさんとの会話は自分の死後の話題さえなんの変哲もなく淡々として日常風景に溶け込んでいく、まるで小津安二郎の映画を見ているようだ。

一方、受け入れられない死もある。Bさんは当院の中心的な女性職員で、がっちりした体形、宴会部長として話芸も冗談も抜群、それになかなかの人格者で当院にとってなくてはならない人物だった。Bさんは女手一つで二人の子供を育てあげた苦労人でもあった。ところが、48歳の時、当院で後腹膜腫瘍が見つかった。がんセンターでがんの転移と診断、余命1年と宣告されたのだった。下の子供さんはまだ高校生、しかも夢だったマンションを購入したばかり、そう簡単に命を諦めるわけにはいかなかった。私にとっては患者と同時に同士ともいえる存在だった。亡くなるまでの1年間、彼女は決して諦めようとしなかったので、筆舌に尽くし難いほど壮絶な戦いとなった。私はタオルを何度も投げようとしたが、彼女はそれを許さなかった。最後はがん性腹膜炎だった。衰弱した表情、はち切れそうな腹水、糸のようにやせ細った手足にかつての面影は微塵も感じられなくなっていた。腹水を抜けば楽になるが血圧が低下して死ぬかもしれない、入院先の主治医からそのような説明を受け拒否していたが、あまりの苦痛に耐えられず腹水を抜いてほしいと主治医に懇願したのだった。抜いた後には悶絶から穏やかな表情に変わり、その翌日に息を引き取った。Bさんは骨太の生き方を最後まで骨太に貫いた。

Bさんは予感もあったのか子供さんと2年早い成人式の写真を撮っていた。しかし、身体的な痛みや苦しみが我慢の限界を超えた最後の最後まで死を受け入れていたとは私には到底思えない。心理学の教科書には死の受容の5段階、否認、怒り、取引、抑鬱、受容が知ったかぶりに載っている。しかし、そうはいかない患者の方がむしろ多いのだ。この若さで家も子供も置き去りにして死を受け入れることができるものか。そして、4年以上たった今でも、別の治療はなかったのか、もっと早く楽にできなかったか、こんな時Bさんがいてくれたら、残された家と子供さんたち、彼女の無念を思いやると悶々として心が疼く。私もまだBさんの死を受け入れたとは到底言い難い。

それでも、Bさんの笑い顔も苦痛にゆがむ顔も私の後悔も、輪郭や中身はうっすらと霧が立ち込めてきた。受け入れ難い死でも時間が凍てついた私たちの心を溶かしてくれる。Bさんは今の私に「先生、それほど深刻にならなくてもいいのに。でも私のこと、ずっと忘れないでね」と微笑むに違いない。人は死して人の心の中を生きている。死にゆく人たちが一番恐れるのは忘れ去られてしまうことではないか。時間は残酷だが、それゆえに残された私たちは次に進むことができる。そして、私がこのテーマを選んだのもBさんを書き残したかったからだろう。

翻って、私は自分の死をどのように受け入れるのだろうか。医師としてまだやり残した仕事はあるが、それに取り組むことが本当に残りの人生に重要なのだろうか。もっと気楽に生きてもよいのではないか。そして、Aさんのように手術すれば助かるはずのがんを何歳になればきっぱりと断れるのだろうか。これからも行きつ戻りつ思い迷う日々が続いていく。

illustration by hamano fumiko

ドクターズプラザ2019年5月号掲載

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