2019
09/25
人生の岐路でどう選択するか
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診療日誌
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愛知県
医療法人芍薬会 灰本クリニック 院長
隔月刊ドクターズプラザ2019年9月号掲載
診療日誌 (4)
その1 内科研修、基礎医学から35歳まで
人生は選択の連続である。複数の道の岐路に立ったとき、運もあるが、私はありったけの内省と人生観を総動員して決断してきた。私がどんな理由でどの道を捨てどの道を選んだかを振り返ることは、もしかすると若い医師、医学生だけでなく医療スタッフの方々に役立つかもしれない。そのときどきでどのような理由で選択と決断を繰り返しながら現在の私、医院、診療スタイルが出来上がっていったかを数回にわたって書いてみたい。
28歳、3年間の東京での内科研修を終えようとしたとき、東京・関東に残るか、出身校の名古屋へ戻るか迷っていた。臨床とは上司の教えやマニュアルをまるで小学校の生徒のようになぞるだけで独創性はゼロ、個性は全く押しつぶされ、“面白い”とはとてもいえなかった。マニュアルに書かれたことは本当か? 一体どんな根拠で作られたかも、はなはだ疑問に思っていた。だから、それらの答えを見つけるために基礎医学をやってみたかったのだ。東京は確かにいろいろな大学から多彩な能力や実力を持った医師が集まり、特に他科とのカンファランスは抜群に面白かった。しかし、カンファランスとは人と人との間に活路を見いだす手法であって独創を育てる方法ではない。東京はガイドラインのような総意の結集には優れているが、逆に独創性は生まれにくいと感じた。どの地域からノーベル賞を輩出しているかを見ればそれは一目瞭然であろう。独創とは常識を大きく覆すのだから周囲からは奇人変人扱いされる。それを覚悟して雑音に耳を閉じ一人こもって自分自身の課題を突破しようとする、そのような生き方が独創を生むのだ。地方の方が独創的な生き方ができると28歳の私は考え、名古屋で病理学を専攻すると決めた。それに当時結婚したばかりの私たち夫婦は山口県の田舎育ちなので東京で子供を育てるのを困難に感じていたのも一因だった。
名古屋市近郊の春日井市に小さな家を借りて、病理学大学院、神経生化学の研究所、愛知県がんセンター研究所などで病理診断と基礎研究にどっぷり浸かって多くの論文を書いた。基礎研究では世界を相手に実力だけで勝負するという潔さと高揚感が新鮮だった。当時、病理学会で年間3編の英論文をfirst authorで書き続けていた若手は数えるほどしかいなかった。今、手元に札幌の学会の後、支笏湖湖畔で映っている32歳の私の写真があるのだが、自信に満ち溢れ向かうところ敵なしのオーラが漂っている。全く馬鹿というか、単純だったものだ。しかし、論文の厚みがどんどん積み重なっていた34歳頃、科研費も取得し研究も順調だったのだが、このまま病理診断や基礎研究にうつつを抜かしてよいのかを疑問に思い始めた。医科学は生命現象に謙虚、綿密、厳格であるがゆえに視野狭窄でもあって、積み重ねると確かに部分は正確に見えて来るのだが、いくら研究しても、“人の全体像”は何も見えてこなかった。それに、読者の皆さんは知っているだろうか。科学という名の下に当時の軍の反対を押し切って人類を不幸のどん底に貶めた原爆と毒ガスを率先して完成させたのは二人のノーベル賞科学者、物理学のアインシュタインと化学のハーバーだったことを。学生時代の恩師からそのような科学者の罪悪と責任を教え込まれていた私は、そんな自然科学の片棒を担いで良いのか、私の人生観と研究の間には埋めがたい齟齬が生じていたのだった。
それにもう一つの理由があった。研究職とは公務員として給料をもらって生きることでもある。私には宮仕えは根本的に性が合わなかった。私は給料を支払う側、つまり経営側に立って誰からも邪魔されることなく“面白い”“独創的な”仕事をしたかったのである。1年間、夢にうなされるほど悩んだ末に研究職を辞して開業医になることを決意した。面白くて独創的、人の全体像が見える、給料を支払う側、そのような条件を全て満たすのは開業医しか見当たらなかった。35歳、私は病理医、研究者、公務員を捨てて町医者への道を選択した。とはいっても、7年間も全力で打ち込んだ基礎医学や病理学は私の心に科学的思考をしっかり根付かせていた。それはその後の臨床に決定的な影響を与え続けることになる。
さて、しばらく臨床を離れていたので再び内科研修が必要だが、次はどこで研修しよう? 当時の日本で研修のメッカは東京のいくつかの有名な病院と沖縄県立中部病院だった。そうだ! 今度は沖縄へ行くしかない。幸いにして中部病院出身者で設立した中規模病院が内科研修医として採用してくれることになり、35歳の私は妻、二人の子供と共に沖縄へ渡った。このとき私は、何事においても中央、中枢、大学ではなく辺縁を生きるのが好きだと悟った。