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人生の岐路でどう選択するか

診療日誌

灰本 元
『診療日誌』
医療法人芍薬会 灰本クリニック院長(内科医)
ドクターズプラザ2020年1月号掲載

診療日誌(5)

その2 沖縄研修から開業へ

研修を受け入れてくれた沖縄市の中頭(なかがみ)病院は那覇空港から車で1時間の田舎にあって沖縄県立中部病院出身の医師が多くを占めていた。彼らの哲学はアメリカ型臨床、すなわち「正確な診断こそが命を救う」である。

勤務が始まってわずか2週目、70歳代の男性が4週間以上も続く38度の発熱、大量の腹水、10㎏の体重減少で来院。一目見てカヘキシー状態だったので即日入院させ全身をくまなく検査したが、1週間経過しても何も見つからず病状は悪化した。内科部長のI先生は困り果てていた私に「君がこれだけ検査して異常が見つからないのだから、この腹水の原因は一つしかない。鑑別診断を調べたのか?」。ぽかーんとしている私に中部病院が経験したこの疾患20例のまとめを渡してこう言った。「原発性結核性腹膜炎、すぐに開腹して腹膜生検をしないと患者は死ぬ」。中部病院のほとんどの症例で腹水から結核菌は検出されず確定診断は開腹生検のみだった。31年前、腹腔鏡がまだなかった時代、このカヘキシー状態で開腹するのか、本土ではあり得ない選択だった。そして、手術室で患者の大網全体に無数の黄色い結核結節を見たときの驚きを今も忘れることができない。この患者は元気に退院することができた。即刻の開腹を命じたI先生、それに応じてくれた外科医も中部病院出身だった。

正確な診断への高い志とそれに基づく正確な治療、私は追い詰められた場面で何度も彼らに救われ、そのたびに畏怖を感じたものだ。彼らに教わった多くの症例を思い出すと今でも背中がぞくぞくする。そしてなにより彼らは厳しかったが、温かい人たちだった。循環器内科部長のN先生が出張の折、外来患者30人の診療を任せられたことがあった。沖縄方言で“おじい”“おばあ”との会話の中で「N先生はどうですか」と問うと、期せずして3人もの患者がにこにこ微笑みながら「N先生に誤診されて死んだとしても本望」と語ったのだ。それは偶然でも偽りでもない。患者たちは心の底からそう思っていると感じられた。患者・医師関係の究極の姿はこうなのか、私は強い衝撃を受けた。そして、彼らと共に働くうちに東京でも名古屋でもなく辺境の地、沖縄で私の中に目指すべき内科医の骨格が出来上がっていった。

2年後、私は春日井に戻ってきた。次女が沖縄で生まれたので家族は5人となった。開業に至るまで場所、設計士、建築、銀行からの借り入れ、スタッフ募集など課題は山積しており、これだけの課題を解決しながら常勤職は無理だったので、内科外来と小児科外来、当直、胃カメラなどのアルバイトをしながら準備に取り掛かった。以前から私たちの子供たちをかわいがってくれた知人が土地の提供を申し出てくれ、設計士も決まった。これらは全て友人らの支援のおかげだった。いつの時代も持つべきものは友である。

しかし、最大の難関は開業資金の借り入れだった。愛知県に縁もゆかりもなく、サラリーマンや公務員を親に持つ私たち夫婦には土地や株などの資産はなかったから銀行との交渉は難航した。銀行は資産を持っている人にしかお金を貸さない、人物を見て貸すという非現実なことはしない。そもそも人物を見きれるだけの眼を持っていない、それなら大人でなくても中学生でもできるではないか、心の中でそう毒づくことがしばしばあった。屈辱を感じながらも何とか借り入れはしたが、以後、私は大の銀行嫌いとなった。

私と薬剤師の妻の二人三脚で設計、建築、診療の準備が始まった。業者に発注すれば簡単にできる用件はたくさんあったのだが、私たちには資金が乏しかった。例えば、患者に配布する医院の案内、検査や薬などの説明パンフレットもワープロを使って作成した。患者は来てくれるだろうか、定着してくれるだろうか。患者が来ないのが3カ月も続けば運転資金は枯渇して廃業に追い込まれる。開業が近づくにつれて次第にそこはかとない不安が募っていった。その一方で私には妙な自信もあった。基礎医学で世界を相手に勝負できたのだから、近隣の開業医に負けるはずはない。しかし、研究と開業では求められる資質は全く異なっている。底の見えない不安と根拠に乏しい自信とが交錯したまま開業日を迎えたのだった。

開業当日の午前2時、8時分から開業なのだがまだ準備は終わっていなかった。そのような夜なべが1カ月も続いていた。「今朝から開業だ。もう寝よう」。妻へそう言ったのを懐かしく思い出す。しかし、資金が乏しかったことは患者の目から見て確実にプラスに働いたと思う。後に分かったことだが、私たちの庶民的雰囲気、手作り、一生懸命夫婦で頑張っている姿は地域の住民にしっかりと好感を持って伝わっていたのだった。

1991年2月8日、灰本クリニックは開業した。私は38歳、約50坪の小さな診療所。ここから30年近くに及ぶ人と病気の全体像を探す道が始まった。常勤職員は私、妻、事務1人、看護師2人のわずか5人だった。

ドクターズプラザ2020年1月号掲載

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