2013
01/15
人に勝つことより自分に勝つこと
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特別インタビュー
ドクターズプラザ2013年1月号掲載
特別インタビュー/萩原 智子氏
病気の克服も競技の続行も周囲の人々の支えのおかげ
Contents
バルセロナオリンピックを観て、オリンピックを目指す
内野 水泳を始めたきっかけを教えて頂けますか?
萩原 私、小学校2年生までまったく泳げなかったんです。でもプールや海は大好きで。海のない山梨県で育ちましたが、旅行に連れて行ってもらった先で溺れたことが水泳を始めようと思ったきっかけです。
内野 普通は水を怖がるようになると思いますが……。
萩原 負けず嫌いなんでしょうか(笑)。怖いというよりは悔しい。それから、奇麗に泳げるようになりたくてスイミングスクールに通い始めました。
内野 スイミングスクールに入った時は泳げなかったんですか。
萩原 浮き輪をつけて練習していました。でもピンチはチャンスではないけれど、そういう形で水泳と出会えたので良かったと思っています。
内野 スポーツ自体はお好きだった?
萩原 はい! 大好きでしたね。
内野 やんちゃな子どもだったんですか。
萩原 めちゃめちゃやんちゃ(笑)。ピアノとか習字とかいろいろ習わせてもらってもだいたい3カ月でやめてしまっていたのが、水泳だけは続きました。
内野 最初に試合に出たのは何歳の頃ですか。試合に出てみたら連勝とか……。
萩原 いえいえ。私は遅咲きで……。初めて地区大会に出たのが小学校3年生の時。まだ平泳ぎしかできなくて、今では一番苦手とする平泳ぎで出場したのですが6位でした。6位なら普通はなんでもないはずだけれど、甲府市の試合は1位から8位までメダルがもらえたんです。生まれて初めてもらったメダルが嬉しくて。家に帰るまでの道も、帰ってからもずっと首にかけたまま。寝る時になって「危ないから外しなさい」と言われ、やっとのことで外したくらい嬉しかった。それをいまだに覚えています。
内野 最初のメダルは嬉しかったでしょうね。もしかしたら、その頃から、オリンピックを意識しましたか(笑)。
萩原 いえいえ。私が小6の時にバルセロナオリンピックがありました。岩崎恭子さんが金メダルをとりましたよね。岩崎さんは私の2歳上で同世代なんです。それを見て、私もオリンピックに出たいって思いました。
内野 14歳で金メダル。「今まで生きてきた中で一番幸せ」という名台詞は流行語にもなりましたね。
萩原 本当に憧れました。信じられないくらい小柄で細身で、どこにあんなパワーがあるんだろうっていうのも驚きで。私は小6ですでに170センチもあったので、頑張ればどうにかいけるんじゃないかなっていう勇気を与えてもらえるレースだったんです。
内野 小学生で170センチですか……。現在は、身長180センチということですが、身長は何歳頃から伸び始めたのですか?
萩原 生まれたときから、すでに大きかった(笑)。産科の先生にも、この子は骨太だし絶対大きくなるよと言われたそうです。
内野 お医者様の言葉通り?
萩原 はい。幼稚園のときも頭ひとつ大きかったし、小学校の修学旅行では引率の先生と間違えられたりしていました。
内野 ご家族も皆さん大きいのですか?
萩原 全員大きいです。祖父母も大きいので完全に遺伝ですね。スポーツも好きで姉はバレーボールをやっていました。
内野 その体格ですと、萩原さんも水泳以外のスポーツからもお誘いがあったのではないですか。
萩原 姉のバレーボールチームから「練習に参加してみないか」と誘われて行ったことがあります。でも一度行っただけで「もう来なくていい」と言われてしまいました(笑)。
内野 ということは、陸上ではなくやっぱり水の中が得意なんですね(笑)。
萩原 競泳選手には多いみたいです。陸上のスポーツは全然ダメで、無理してやるとケガをしてしまったり……。
内野 水泳には、その体格がメリットになったのですね。
萩原 どうでしょうか。遅咲きだったのも体格が原因だったかもしれません。私、手も足も本当に大きく使いこなすまで時間がかかりました。
内野 使いこなすというと……。
萩原 手足が大きいと、手で水をかく面積、足で水を蹴る面積が大きい。水は、重たいので、水に接する面積が大きいと言うことは、相当な筋力がないと、その重さに負けてしまいます。筋肉が十分ついていないと、後半は自分の体が重りでしかなくなってくるのです。
内野 女子で萩原さんほど大きい方をどう指導すれば効率的に伸ばせるか、指導陣にもデータがなかったのではないでしょうか。
萩原 そうかもしれません。おかげでというか、本当にゆっくりゆっくり大事に育てていただきました。
絶好調から一転、入院生活。体調管理の重要性を再認識
内野 ずっと厳しい練習を続けてこられたと思いますが、中学、高校時代はどのように練習、睡眠、食事、学校などのバランスを取っていたのですか?
萩原 中学時代は平均週に9回から10回練習していました。
内野 1週間、7日で……。
萩原 週に1度休みがあって6日間。この中で午前、午後とやる日が数日。
内野 その間に学校もあるわけですが、だいたいどのようなスケジュールだったんでしょうか?
萩原 朝6時から8時くらいまで2時間泳いで、すぐご飯を食べて学校に行きます。授業が終わったら5時くらいからスイミングスクールに行って腹筋など陸上トレーニングを少しやって泳ぎ始める。9時くらいに終わって帰ってご飯。そんな感じです。
内野 それを毎日ですか。凄くハードですよね。水泳は消費も激しいので食事にも気を遣われたのでは?
萩原 一番食べていた時で1日7食くらい。おやつじゃなくて、おにぎりとかサンドイッチとか、そういうちゃんとした食事を7食。フルーツなども取るようにしていました。
内野 練習がきつくて食べられなくなるということはありませんでしたか?
萩原 そうですね、ありました。そういう時も食べろ、食べろと言われるのがつらかったです。
内野 スポーツ選手の方には多いですね。7食の配分はどのようにしていましたか。
萩原 朝練の前に軽くおにぎりなどを食べて、朝練が終わってガッツリ朝ご飯を食べ、10時くらいになるとお腹が空いて、野球部等の選手と一緒に早弁(笑)。それでまたお昼を食べて、午後の練習前に食べる。そんな感じでしょうか。
内野 食べても体重は増えないですか?
萩原 練習を終えると普通に3キロくらい減ります。そうしたらすぐに栄養プロテインドリンクを飲んだりして。体重の増加については、脂肪より筋肉のほうが重たいので、筋力トレーニングをびっちりすると、筋力が増えて、体重が重くなります。だからあまり気にしていませんでした。しかし筋肉と脂肪の割合、バランスには、気を付けていました。筋力がつきすぎると今度は浮力がつかないので不利になるんです。
内野 競泳選手の場合、ある程度脂肪をつけて浮力をつけることも必要ですね。
萩原 私はもともと脂肪がすごく少なくて、体脂肪はずっと平均11%とか12%だったんです。
内野 アスリートでない女性の体脂肪率の標準は15%以上です。競泳の場合は、10~18%程度が理想の範囲とされています。
萩原 大学4年生だった2002年、物凄く絶好調で一気に記録が伸びた時期があったのですが、その時の体脂肪が6%だったんです。おかしいというので何回も測り直しましたがそれでもやっぱり変わらない。「この数字が間違いでないのならちょっと気をつけたほうがいい。体調を崩すギリギリのところだよ」とトレーナーに言われていた矢先のこと、夏の大会で優勝して金メダルを獲った翌日に入院することになってしまいました。
内野 女性で体脂肪6%というのは、ボディビルダー並みです。身体は命に係わる極限の状態でストレスを受けていたと考えられます。
萩原 過換気症候群。低血糖からの過呼吸で無酸素になってしまい1カ月の入院。そこからはすごく気をつけるようになりました。体調管理、体脂肪や体重のコントロールなど……。
内野 脂肪というのは身体を外敵から守ったり体温を調整したりする役割を持ちますから、極端に少なくなってしまうと健康な身体を維持できなくなってしまいます。
萩原 「調子がいいときほど気をつける」と言う通りですね。記録が出ていれば自分では調子がいいと思ってしまう。でも気づかないうちに体や心が疲れていることもある。身を以て勉強になりました。
思いがけず込み上げた涙。もう一度チャレンジしたい!
内野 2004年に一度引退されたのは、その時の過換気症候群が原因だったのですか?
萩原 いいえ、違います。2002年の夏から入院して、その年の冬までまったく泳げなくて、その時は、やめようか続けようかずいぶん考えました。でもこのままやめるのは嫌だ。同じやめるにしても、もう一度チャレンジして、自分でしっかり納得してからやめたいという気持ちが強かった。それで2004年、アテネオリンピックに挑戦することに決めました。だからあの時は泳げることに幸せを感じながら目指したオリンピックだったんです。そして予選会で優勝した。けれどタイムが切れない。五輪派遣標準記録まで0.3秒だったかな、足りなくて。でもゴールタッチした瞬間、タイムが足りないとわかった瞬間にすごく納得しました。水泳に対して、思い残すことがない……。もう涙も出ないくらいラストスイムに納得できました。引退を決めたのはそれからです。
内野 引退の原因は燃え尽きてしまったということですか。
萩原 燃え尽きたというよりは、もうやり残したことはないな。次に浮かぶ夢とか目標が水泳に関してはない。という感じでした。だから直後「引退」という言葉は使わなかったけれど、水泳から離れました。
内野 その後はまったく練習はしなかったのですか?
萩原 試合に出るための練習ということでは、しませんでしたね。軽くランニングとかストレッチとか、そういう一般的な体のトレーニングと、水に入るといえば子どもたちに水泳を教える時だけでした。
内野 その間にご結婚もされ、そして2009年に現役復帰。その時の心境はどのようなものだったのでしょうか。
萩原 2004年にやめた時点で、もう一生競泳の世界に足を突っ込むことはないと思っていました。ただ30歳を目前に、何か本当に打ち込めるものをもう一度見つけたいと思っていて……。それが主婦業をしっかりまっとうすることなのか、メディアの関係者としてスポーツに関わっていくのか、指導者なのか。選択肢はその三つのはずだった。そんな時にマスコミの仕事で北京オリンピックに行きました。開会式で五輪の輪が光りながら浮かび上がってくるシーンで、なぜか号泣してしまったんです。
内野 内面からこみ上げてくるものがあったんですね。
萩原 まったくゼロだった競技者という道がバーンと出てきて。一緒に見ていた人がびっくりして「どうしたの? 大丈夫?」ってオロオロさせちゃうくらい号泣してしまって。それからはもう、競技者としての視点からしかオリンピックを見られなくなってしまっていました。
内野 復帰されるということに関して、旦那さんの反応はいかがでしたか?
萩原 「復帰したい」って初めて言った時に「やると思っていた」って。本当にまったく驚きもせずにそう返してきました。どちらかと言うと「いつ言い出すか」と思っていたみたいです。その反応に私のほうがびっくりしちゃいました(笑)。でももちろん旦那さんだけではなく、旦那さんの家族もいるのでやっぱり報告しなければないし、理解してもらわなければならない。そうしたらお義母さんも「やるべきよ。今しかできないことなんだから」って後押ししてくれました。それからはもう、ほとんどの試合を見に来て応援してくれました。
内野 萩原さんご自身が気づいていなかっただけで、周りの方々はわかっていらっしゃったんですね。
萩原 いや~、そういうタイミングってあるんだなって思いましたね。もし一つでもダメだったら私は戻らなかった。そう思うと不思議な感じがします。
病気の公表は呼びかけるため。未来の自分のために検査を!
内野 そうして満を持して復帰され、記録も更新して、さぁこれからという時に子宮内膜症とチョコレート嚢胞という大きな試練が訪れたわけですね。
萩原 私の周り、家族や友人には婦人科系統の病気の人がいなかったので……。いたのかもしれませんが、みんな言わないから知らなかった。だから初めて聞く病気で「何それ?」っていう感じだし、子宮という言葉を聞いただけで「どうしよう」って思いました。
内野 子宮に関する病気と言われると、女性にとっては深刻ですよね。
萩原 それイコールというわけではないけれど、治療をしなければ、不妊症の確率が高くなるという説明もありました。それで、もう水泳やっている場合じゃないと思って、競技のことは一切忘れてセカンドオピニオンを求めて病院を回りました。
内野 自覚症状はあったのですか?
萩原 高校生くらいから月経は本当にひどくて薬を飲んでいたんですよね。でも周りに薬を飲んでいる友人はいたし、それほど特別だとは思っていなかった。それで、どんどん悪くなっていきましたね。
内野 公表されるにあたって迷いやためらいもあったと思うのですが。
萩原 迷いましたね。でも私がまったく知らずに長年お腹の中に病気を抱えていたように、自分が病気であることを知らない人がたくさんいるはずです。少しでも早く、一人でも多くの人に知って欲しい。若い子にも男性にも知って、理解もしてほしいと思い公表しました。そうしたら逆に経験した方がたくさんいらっしゃって、びっくりするくらいのメッセージをいただき、私の方が物凄く励まされたり助けられたりしましたね。
内野 子宮内膜症の方は普段の生活をするにも1.2~1.5割増しくらい身体に負担がかかっていると聞きます。そういう体でオリンピック選手としての練習を続けてこられた萩原さんは、物凄く頑張り屋さんなんだと改めて思います。
萩原 今思うと、なんであの時に病院に行かなかったなんだろうということがいくつかあって。後悔というのではなく、どうして自分の体からのメッセージに気づかなかったんだろうって。だからこそ公表することで、多くの方に自分の体について考えてもらえればと……。若い子たちに「こういう症状があるんですけど……」と相談される機会も増えました。「私は専門家じゃないし、人それぞれ症状も違うんだから、少しでも気になることがあったらすぐに病院に行った方がいい。行って損することは何もないんだから」と言います。しつこく検査を勧めますよ(笑)。それで検査に行った人が、また周りに勧めてくれて草の根的に広げていけたら。でもやっぱり婦人科って、こう、なんだろう……。敷居が高いというか、なんとなく勇気がいるんですよね。
内野 婦人科に行くってハードルの高さみたいなものを感じてしまいますよね。私も女性として大いに共感します。なんでなんでしょうね。体のメンテナンスという意味で、美容院とかエステみたいな感覚で行けるようになれば本当にいいと思うのですが。でも萩原さんのような方がメッセンジャーになってくださると、知識を得たり勇気づけられたりする方が増えると思います。しかも手術の後、さらに記録を更新されているのが凄い!
萩原 婦人科の先生曰く「重りを取ったんだから、もっと早く泳げるよ」って(笑)。何人かの先生にお会いしましたが、良いとか悪いとかではなくて、相性というのもあるんだなと感じました。ポジティブな言葉をくれた、私にとって相性が良いと思える先生に手術をお願いしたので、前向きな気持ちで病気に立ち向かえたんだと思います。今はもう本当に楽というか、こんなに違うのかと感じます。
内野 手術してよいことばかりでしたか?
萩原 そうですね。私は癒着もひどかったので、胃痛や排便痛があったり、痛みが背中まできちゃったりしてかちかちになることもあって。病気を知らない時は、今日ちょっと練習頑張り過ぎちゃったのかなとか、トレーナーにも「背中が張っているけど、これは胃の裏だから食べる物に気をつけたら」とか言われて、栄養士の先生に相談したり。でもそうやって気をつけてみても治らない。原因が違うところにあるのだから当たり前ですよね。
気になる健康法は試してみる。お酒も少し控えめに……。
内野 子宮や卵巣の機能に関しては、疲労やストレスによる肝機能の低下が影響するといわれます。栄養学的にも肝臓の働きをよくする食品や食べ方をおすすめします。
萩原 ということは、お酒はやめたほうがいい?
内野 お好きなんですか?
萩原 はい。やばい(笑)。
内野 適正飲酒量(*)を守って、疲れた日は休肝日とするといいですね。ご飯等の穀物からの糖質エネルギーが不足しないように食べること、牡蠣やウコン、温かい飲み物や生姜で身体を冷やさないように心掛けることが肝臓にはいいですね。
萩原 あ、生姜は人に勧められてよく取っています。体を温めるというので。
内野 練習の前に必ず食べるものなどはありますか?
萩原 バナナですね。何かあるとバナナを食べています。
内野 スポーツ選手の方には多いですね。栄養もあるしいいですよね。ただ一つだけ気を付けたいのは、バナナは体を冷やす作用があるので水に入る競技の場合、特に食べ過ぎに注意したり、体調と相談したりしていただきたいと思います。ご飯、パスタ、パンなどの炭水化物も食べていますか。
萩原 全部好きです。
内野 まんべんなく食べて、好き嫌いもなく。
萩原 そうですね。あとは大豆。納豆はもちろんきな粉や大豆パウダーを牛乳で溶いて飲んだり。豆乳もよく飲みます。
内野 食品で摂取する大豆イソフラボンは副作用のない女性ホルモン様の作用で、子宮内膜症の進行を抑える可能性が研究されています。食べ物以外で気を付けていることはありますか?
萩原 お風呂に長く浸かるようにしています。それから朝、最初に一杯の水。冷たい水よりも白湯を飲む。お風呂上がりでも白湯の方が良いとか。
内野 身体を冷やさないために極力冷たいものは飲まない方が良いようです。私も普段は番茶ばかり飲んでいます(笑)。
萩野 親戚に健康フェチのおばさんがいて、いろいろ教えてくれるんですよ。その中か
ら自分で良いなと思ったものを試したりしています。
内野 水泳は心肺機能の影響が大きいので20歳くらいがピークだと言われていた時期がありましたね。10年、20年前くらいでしょうか。でも萩原さんのような方が豊かな経験を糧に記録を更新されていったことで勇気付けられる選手も多いと思います。
萩原 そう言っていただけると嬉しいです。これまで水泳は企業にもあまり認知されていなかったのですが、最近10年くらいで流れが変わってきました。北島康介選手の影響が大きいのですが、やる環境、できる環境が整ってきて、みんな盛り上がっている。若い頃は勢いだけでやっていけるけれど、ベテランは心と体の強さ、バランスなどという面で頑張っていけるんです。
内野 スイミングスクールも大人気ですが、速く泳ぐコツってあるんですか?
萩原 う~ん、難しい……。ただ、私は姿勢がすごく大事だと思っています。水の中というのはすごく抵抗があるので、その抵抗をより少なくして進む、競うのが競泳というスポーツです。水の中でいかに一本の棒になれるか。
内野 心肺機能だけでなく体をうまく使うことですね。
萩原 もちろん心肺機能を鍛える練習も、昔と変わらず重視されています。それプラス、ウェイトトレーニングをがんがんやって筋力をつけるというのではなく、体幹トレーニングが最近の主流ですね。男子は特に、昔はすごくがちがちのキン肉マンみたいな競泳選手が多かったけれど、今ではすごくバランスがいい体型。すっとしている人が多いです。
内野 体調管理に気を付けて、正しいトレーニングをすれば30代でもまだまだいける?
萩原 そうですね。私が若い頃にしていたトレーニングと、今のトレーニングは全然違う。復帰した時は新鮮で楽しかった。真逆のことを言われたりするものですから。そうやってスポーツや栄養、体の科学はどんどん進んでいますから、可能性はまだまだ広がっていくと思います。
難しいのは自分に勝つことと、自分の弱さに向き合うこと
内野 これまで本当にひたむきに頑張ってこられた経緯で要所要所に様々な出会いがあり、今の萩原さんがいらっしゃると思うのですが、座右の銘を教えていただけますか。
萩原 中学に入学した時、学年主任の先生が初めてくれた言葉が「克己」でした。己に打ち克つ。それが学年のテーマにもなっていて卒業アルバムにも記されています。最初はそういう言葉なんだとしか思わなかったのですが、自分が真剣に水泳に打ち込むようになっていって、人に勝つことより自分に勝つことのほうがよっぽど難しいということを知っていくと同時に、自分の中で本当に重みをもつ言葉になっていきました。本当に日々、弱い自分に負けないように、怠けないように、それが今でも人生の目標になっています。
内野 辛く厳しい練習、長い時間の中、やめたくなったり逃げ出したくなったりしたことはあったのでしょうか?
萩原 「ないです」ってカッコよく言いたいですけれど(笑)。実際は本当にたくさんありました。でも出会ってきた人が、みんなもの凄く良い人ばかりで、本当に恵まれています。私が倒れそうになった時にも必死に背中を押してくれる。頑張れ頑張れって励ましてくれる。それでまた立ち上がれる。家族はもちろん、友人も水泳以外も含めた指導者も。心の底から感謝しています。それからもちろん、自分自身の根底にあったオリンピックに出たい、闘いたいという気持ちもあります。いろいろな人がはしごをかけてくださっている。それを登るのも途中で諦めて降りるのも最終的には自分次第ですから。
内野 その強い意志と、周囲の方たち同様に人を想い寄り添う萩原さんの人柄が、またいい出会いやいい関係に結びつくのでしょうね。病気を克服するためにはご自身の治療や健康管理はもちろん、ご家族の支えも大きかったのでしょうね。
萩原 物凄くありました。手術が終わって10カ月くらいでロンドンオリンピックの選考会だったんです。その間は本当に水泳だけ。物凄く充実した10カ月間を過ごせたのは家族や周囲の人々がすべて理解してくれたおかげです。
内野 手術後に泳ぎや意識の中で何か変わったことはありましたか。
萩原 最初はもっと泳ぎたくても「まだダメだ」と言われたりして葛藤した時期もありました。私は癒着がひどかったので4センチくらいの傷口が残っているんですね。それで毎日水着に着替える時に傷口が見える。逆にその傷口がすごく励みになったんです。この時よりはよくなっているし前に進んでいるなって。
内野 プラス思考へのスイッチみたいですね。
萩原 周囲の人々と共に過去の自分にも励まされている。不思議に嬉しい感覚でした。
内野 これからの目標をお聞かせいただけますか。
萩原 たくさんあるのですがプライベートでの大きな目標は、やっぱり母親になりたいですね。授かりものなので何とも言えませんが、子育てを体験できるのであればぜひしたい。あ、お酒を控えないといけないですね(笑)。水泳ということで言えば、水泳教室ももちろんですが、水の学習のようなこともしていきたい。水泳は水がないとできない。水に何かあれば一番はじめにダメになるスポーツです。水泳で生きていた私の視点も含めて、水というものの大切さを子どもたちに伝えていけたら良いなと思います。
内野 次世代へのバトンタッチ、素敵ですね。妊娠、出産は子宮内膜症の再発予防にも役立ちます。コウノトリが萩原さん宅に到来することをお祈りします。
*適正飲酒量
公益社団法人アルコール健康医学協会( http://www.arukenkyo.or.jp/index.html )
社団法人アルコール健康医学協会では、健康な身体を維持するための一日の飲酒適正量を、純アルコールに換算して約20~25gの酒量としています。