2015

01/15

ファンへ、周囲の人々へ、親への感謝

  • インタビュー

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「まいどっ!」の一声と溌剌(はつらつ)とした笑顔でお立ち台の人気者だった岩本勉さん。高校卒業後プロ入りし、退団するまで日本ハム一筋だった一途で情熱溢れる野球人生と、それを支えたファンや周囲の人々、家族への熱い想いを東京家政大学ヒューマンライフ支援センター准教授・内野美恵先生が伺った。

ドクターズプラザ2015年1月号掲載

特別インタビュー/岩本 勉

心も体も健康に、球界と社会にずっと貢献していきたい

家族の愛情溢れる食生活で人一倍丈夫に

内野 岩本さんが入っていらっしゃったときから、部屋の中が急に元気なムードに包まれたような感じがします。あの「まいどっ!」のイメージそのまま、お変わりないですね。

岩本 仕事であれこれしゃべっている時と普段の時が、まったく変わらないと言われます。常に賑やかに、ハイテンション(笑)。

内野 ファンは皆さん、そんなガンちゃんが見たくて球場に通ったんですね。あの「まいど」の挨拶は、どういう経緯であんなに有名になったんでしょうか?

岩本 あれね、ファンのおじさんから掛けられた言葉なんですよ。僕は大阪人だから、もともと馴染みのある言葉ではありますが。いつも見に来てくれていたおじさんに「まいどっ、ガンちゃん」って言われて「まいどっ!」って返していた。それがお馴染みになっていって、そのうちお立ち台でも「あの一言を言ってほしい」ってリクエストされちゃって。お立ち台で「まいどっ!」って叫ぶと球場全体がドッと湧くんです。皆さんが喜んでくれるのが嬉しくて決まり文句にさせていただきました。

内野 憶えています。岩本さんの「まいどっ!」をみんながワクワクして待っていて、あの一言が出ると球場が一体になって盛り上がる感じ。試合が終わった後なのに、なんだかほのぼのというか、いい雰囲気になるんですよね。岩本さんの人柄だと思います。小さい頃は、どんなお子さんでしたか?

岩本 給食を残さない子どもでした(笑)

内野 素晴らしいです(笑)。

岩本 落ち着きのない子でしたね。賑やかで元気で、身体を動かすのが大好きでした。

内野 好き嫌いはありませんか?

岩本 ありません。これは親に感謝ですね。母親は自分が嫌いなものでも子どもたちのために食卓に並べてくれました。自分がトマトは食べられないけれど、子どもたちの健康に良いから、食べたほうが将来絶対良いと言って食卓に並べて「食べなさい」と。

内野 いいお母様ですね。子どもが一度「食べたくない」と言ったものでも、タイミングや調理の仕方でおいしく感じて、食べられるようになることもあります。食卓に出さないものは好きになれない。子どもがなんでもおいしく食べられるようになるためには、親の上手な導きが必要だと思います。

岩本 食事という面でいえば、親には本当に感謝していますね。親というより家族みんな。僕は小学2年生の時に少年野球を始めました。高学年になる頃には「あいつの球、速いぞ」なんて言われるようになり、嬉しくてもっと頑張った。一生懸命やっている姿を見て、家族みんなで応援してくれたんです。両親は共働きで忙しかったし、決して裕福な家ではなかったのですが、父なりに、母なりに、姉なりに栄養のバランスに気を遣って、いろいろ考えて作ってくれた。ありがたいですよ。

内野 そういった良い食生活を受け継がれたご両親のもと、ご家族の愛情に囲まれてスクスク育ったのですね。背が伸びたのはいつ頃ですか?

岩本 高校3年生の時ですね。それまでも少しずつは伸びていましたが、その時グーンと伸びて176㎝だったのが180㎝を超え、現在は182㎝あります。

夢を叶えたプロのマウンドイップスを乗り越えエースへ

内野 そうして体格はしっかりし、努力も重ねてプロ野球の世界へ……。

岩本 そうですね。僕は甲子園にも行っていないし、まさかドラフト2位に指名していただけるとは思っていませんでした。

内野 その時は、どんなお気持ちでしたか?

岩本 大好きで一生懸命打ち込んでいた野球で認められた。これからもずっと野球がしていけるんだと嬉しかったですね。それで当時日本ハムの球団常務だった大沢親分(南海ホークス、東京オリオンズで活躍した故・大沢啓二氏)が、わざわざ家に来てくれたんです。と言っても、何かの用事のついでだったみたいですけど(笑)。岩本家は朝から、そりゃもう大騒ぎでしたよ。父も母も緊張して、いつも通りの狭い家の茶の間なのに、へんにめかしこんでソワソワして。うちは1階で店をやっていて2階が居室だったのですが、親分が階段を上がってくる。そのミシッ、ミシッと軋む音が、もう親分なんです。「うちの大事な長男の将来がかかっているのだから、この機会にビシッと言いたいこと言わせてもらう」なんて言っていた父が、大沢親分の「エー
スと呼ばれる選手に育てますので任せてください」という言葉にダーッと涙を流して大泣きですわ(笑)。後で聞いたら、大沢親分の男気と存在感に痺れて、会った瞬間に惚れ込んでしまったようです。親分も父の涙が印象的だったのでしょうか、それからことあるごとに、顔を合わせるごとにずっと「親父は元気か?」と声を掛けてくれました。

内野 夢だった野球選手になられたわけですが、入団3年後、イップスに苦しんだとお聞きしています。岩本さんはどのように克服されたのでしょうか?

岩本 克服したと言えるのかどうか……。イップスというのは厄介な心の病です。自分の体を自分の思う通りに動かせなくなるんです。ゴルフプレーヤーは、イップスにかかることが知られていますよね。ほんのちょっとのパットが入らない。普段なら外すわけもない距離なのに、試合になると入らない。入らないというよりも打てないんですね、ゴルフボールが。僕の場合は、ストライクゾーンに全然入らない。自分のイメージした場所に球が飛んでいかない。それは自分の思っている通りに体が動いていないからですよね。

内野 それはとても苦しいことだと思います。原因はなんだったのでしょうか。

岩本 どうなんでしょうね。これが原因、という一つのものがあるわけではないと思います。ただ、やはり広い意味で言えばストレスやプレッシャーが原因なのだと思います。憧れのプロの世界に入れたけれど、そこはやはり想像以上に厳しい戦いの場でした。自分が思うような成績がなかなか出ない。自分らしいと考えているパフォーマンスができないとなった時に、自分はこれからこの世界でやっていけるんだろうかと考えてしまう。そうなると、マウンドに立ってボールを放るのが怖くなってくるんですね。しまいにはボールを投げるのが苦痛になってくる。ピッチャーの僕が……、ですよ。それで一体どうするんだと。

内野 極度の緊張からくる心の病ということでしょうか。

岩本 そうですね。マウンドに立つのが怖い、野球をするのが苦しい。今までの自分を思い出した時に、ここまでやってきた意味が分からなくなってくる。これだけ苦しんでいるのは何のためなんだ。もう頭も心の中もグチャグチャですよ。

内野 それだけの苦しみから、どうやって抜け出したのですか?

岩本 きっかけとなったのは母親の言葉ですね。直接顔を見たわけではなく、電話で話していた時のことです。僕が自分の症状のことを話したわけでもないのに、声の調子から何かを感じたのでしょう。唐突に「野球が楽しくなくなったら辞めればいい。大阪に帰ってきて商売でも何でもすればいいよ」って言うんです。いきなり何を言い出すのかとビックリしましてね。でも、電話を切ってその言葉を噛みしめた時、そうだ、自分は野球が好きで、大好きで続けてきたはずだ。その野球が好きでなくなったら続ける意味はない。だからマウンドに立って、これからも野球を続けたいのか、それとももうそれだけの情熱がないのか、きちんと確かめてみようと思いました。マウンドに立つためにはストライクを投げられなければなりません。そのためには練習しかない。

内野先生、今、こうやって僕と話をしながらでも文字を書けますよね。会話をしながらソバを食べられますよね。それは動作が体に染みついて、当たり前のことになっているからだと思うんです。ならばボールを投げることを、自分にとってそういう当たり前のことにしようと思ったんです。それくらい練習して、それでもダメなら諦めもつくんじゃないか。練習のし過ぎで体を壊したとしても、それならばファンの方々に向けても大義名分になるのではないか。「やるだけやったのだから」と。そう考えて、1日トータル1000球投げました。今まで寝ていた時間、家でボーっとしていた時間を練習にあてて、目をつぶって投げても、ボールが勝手にストライクゾーンに入っていくというくらいになるまで練習しようと思ったんです。

内野 そこまですると肩や体を壊す心配がありませんか?

岩本 普通はそうなんですよね。ここも両親に感謝です。肩も体も何ともなかった。丈夫な体に生んでくれて、丈夫に育ててくれた。なんだ、こんなに練習しても大丈夫なのに、今まで自分は余裕の練習しかしていなかったんだ。そう思って、またネットに向かって毎日投げ続けた。そこまでやれば、細かい制球はムリでも、ストライクゾーンに入るようにはなってきます。するとバッターはバットを出す。そうしてゲームが動く。僕がゲームを組み立てていけるようになるんです。それが分かって、やっぱり自分はピッチャーなんだと分かりました。大好きな野球で戦おうと、そう思えました。

 

プロとしての体の管理体の声を聞く大切さ

内野 プロのスポーツプレーヤーですから、身体には人一倍気を遣ってこられたと思います。

岩本 そうですね。自己管理は大事ですね。僕は野菜をタップリ摂るようにしています。野菜が足りなくなると便通にも影響が出るし、疲れやすくなる。しかも体のことだけじゃなく、心にも影響してくるんじゃないかな。キレやすくなったり、人の話を集中して聞けなくなったり。疲れが溜まると自然に野菜が食べたくなりますしね。

内野 体の声を聞ける岩本さんだからですね。野菜は生でたくさん摂ろうとすると、種類によっては体を冷やす場合もあるので、生だけでなく火を通すなど工夫をして、たくさん摂っていただきたいですね。野球選手というと、お酒で体を壊してしまう方も少なくないイメージがありますが。

岩本 僕も飲みましたよ。タバコは吸いませんがお酒は飲む。もの凄いストレスのかかる仕事ですから、食べたり飲んだりすることは制限したくないという気持ちがありました。ストレスを溜めないために、栄養のことも考えながら好きなものを食べて飲む。カロリーは日々の練習でしっかり消費するのが分かっているので、それほど考えなかったけれど……。

内野 確かに、ストレス発散で食べたり飲んだりすることが悪いわけではないですよね。大切なのは、何をどのように食べたり飲んだりするかです。

岩本 人一倍丈夫だった僕に、母は、僕が20歳の頃から「体の声を聞きない。いつまでもスーパーマンじゃないんだよ」と言い続けていました。当時はその言葉の意味を深く考えることもなかった。「何いうてんねん、俺がどんだけ強い循環器持っていると思うとるねん」。なんて思っていましたもん(笑)。でもね、親の言葉を軽んじてはいけないということが分かる時がくるものです。僕の場合は30歳を目前にした頃でしょうか。弁当を買うのでも、それまでは唐揚げやハンバーグばっかり選んでいたのが、ふと気づくと煮物の弁当を選んでいたりする。自然にですよ。逆に言えば、自分の体に必要なものは、自分で分かるということです。それが分かる人間でいられるかどうかが、子どもの頃からの食生活にかかっているのだと思います。自分の体の声を聞けないと健康管理は難しい。

内野 その通りだと思います。自分の体の声を正確にキャッチして、食生活に反映していくというのは健康のための基本ですね。丈夫な体と心、それに努力で日本ハムのエースとなっていきます。球団史上初の開幕戦完封勝利や、日本人投手初(パ・リーグが指名打者制度を導入して以降)の本塁打等、ファンの心に残る記録も多く残していらっしゃいますが、ご自身として特に心に残っている試合というのはありますか?

岩本 いっぱいあります。初登板はもちろん、初勝利、初めての完投や完封、一試合一試合憶えています。

内野 松坂大輔選手(西武ライオンズのエースから米メジャーリーグで活躍。2015年より福岡ソフトバンクホークスの入団が決定)とは、よく投げ合いをされていた印象があります。

岩本 松坂選手とは9歳も違うけれど、彼はもうそれだけ力のあるピッチャーだったから。2001年の6月だったかな。厳しい投手戦になって、どちらも「絶対マウンドを降りない!」という意地と気迫で試合が進んで行った。最後は2対1で僕が完投勝利したのですが、松坂選手は悔しがって、いつまでもベンチで腰を上げなかった。彼も非常に意地がある、負けん気の強い男ですから。

内野 スポーツ選手にとっては大切なことですよね。

岩本 そうですね。僕も負けは認めない。それぞれの試合の結果としての負けは認めなければならないけれど、自分が敗者だと思ってはいけない。アスリートとしての情熱は負けない。「この試合では負けたけれど、次は見とれよ」「最後は見とれよ」ってね。

内野 岩本さんが尊敬する選手はいますか?

岩本 人間的なことも含めて一番尊敬する野球界の先輩は金石昭人さん(広島カープ、日本ハム、巨人で活躍した投手)。僕は今でもあの人のことを師匠と呼ばせてもらっています。プロに入ってずっと可愛がっていただいていましたが、僕が勝ち星を挙げ始めた頃のこと。自分ではそんなつもりはなかったのですが、どこかで鼻が高くなっていたんでしょうね。ある時、金石さんに会ったので挨拶したら「お、まだちゃんと挨拶できるんだな」と言われたんです。普段、絶対に嫌みを言ったりする人ではない。その時も別に嫌な言い方というわけではなかったのだけれど、その言葉になんだか引っ掛かりを感じて、よくよく最近の自分を見直してみた。するとね、「ありがとうございました」が「ありっしたぁ〜」になっている、「お疲れさまです」が「おつかれ〜っす」になっている自分がいた。これはいかんと。それからは気持ちを引き締め、きちんと立ち上がってしっかり挨拶する、自分の練習が終わったら率先してバッティング練習の投球をするようにしました。投手はエースと呼ばれるけれど、決して自分だけの力で勝っているわけではない。その日の試合に出場していない選手や球団スタッフも含めて、チーム全員の力で勝っているんです。自分が投げる日以外でもチームに貢献できることはある。忘れてはいけないそういう大事なことを、危うく忘れそうになった若い自分がいた。それを金石さんは、僕が自分で気づくように、さりげなく教えてくれた。「どんなに強くなっても、人気者になっても、自分の足元をきちんと見て、周囲に感謝できる人間であれ」と示してくれたんです。本当にありがたいことです。

内野 岩本さんが自分でそれに気づける人間であると信じたから、金石さんはそうしてくださったんでしょう。いいお話ですね。

岩本 金石さんが体力的に陰りが見えてジャイアンツに移籍した頃、僕はやっとローテーションピッチャーになった時期でした。1998年、西武ドームでの開幕戦で、僕が初めて完封勝利した直後の日曜日でした。金石さんが「時間があったら飯でも食おう」と誘ってくれたんです。指定された店に行くとスナックみたいなところ。営業日ではない感じで、ママらしき人も普通の私服でした。飯という雰囲気でもないので不思議に思っていたところ、ママがシャンパンを運んできた。「師匠、今日はなにかめでたい日ですか?」と聞くと「なに言っているんだ。お前が初めて完封勝利した祝いだろうが!」って。「イップスで苦しんでいるのも見ていた。ものすごい努力をして克服し、先発になって、完封。俺は自分のことのように嬉しいんだ。乾杯だ。ガンガン飲め」と言って、シャンパンをついでくれた。もう堪らないですよね。感謝と感激で視界がぼやけてしまって、ついでいただいたシャンパンをグイっと飲み干したら「コラ! もっと味わって飲めや!」って(笑)。そして「あの苦しみながら頑張った時間をずっと忘れるなよ」という言葉をいただいたんです。本当に素晴らしい方です。

人の輪に恵まれた喜びを野球と社会への恩返しに

内野 本当にいいお話です。そうやって活躍されるようになった選手生活の中では、試合そのもののこと以外にも、日本ハムの北海道に拠点を移すなど、いろいろなことがありましたね。東京から札幌への移籍は2005年のことでした。

岩本 どうなるのかなと思いはしましたが、自分たちのやることは変わらない。いい試合をしてファンの皆さんに楽しんでもらうだけです。場所はどこでも関係ない。北海道の皆さんに「こいつらが来て良かった」と思っていただけるよう、東京のファンの皆さんに「変わらず頑張っとるじゃないか」と安心してもらえるよう、これまで通りの努力をするだけだと……。

内野 球場のムードや応援の仕方の違いなどはありましたか?

岩本 基本的にはありません。僕は感じなかったです。ただ、土地柄で少しスタイルの違いのようなものはあったかな。初めて野球チームを受け入れた北海道は、一から新しい文化を築こうということで、新しい試みにどんどんチャレンジしてくれた。東京時代のファンの方も、北海道のファンの方も、互いに伝統的な応援と新しい応援を取り入れ合いながら、ファンが一つにまとまること、融合することにすごく力を注いでくれました。本当に感謝感激、ありがたいことです。プロのスポーツ選手にとって、なんといっても大切なのは、ファンサービス。勝つのだって、自分のためである前にファンの皆さんに喜んでもらうためです。だから、どんなに有名になっても、ゆめゆめファンサービスを疎かにしてはいけない。今、札幌ドームは当たり前に満員になるけれど「それを当たり前のことと思うなよ」と後輩には言い続けてきました。自分を人気者にしてくれているのはファンの力なんですから。

内野 ファンの方々を大切にした岩本さんですから、引退の時にはとても惜しまれましたね。引退はとても大きな決断だったと思うのですが……。

岩本 2005年の9月、シーズン中にゼネラルマネージャーに呼ばれました。大阪での試合後のことです。「あ、来たな」とすぐ分かった。いつかは必ず迎えることだし、自分の成績は自分が一番分かっている。だから混乱も何もなかったですね。そこで「ガンちゃん、コーチになって欲しい」と言われました。「ありがたいお話ですが、ハイと即答はできません。少し考えさせてください」と応えました。もしまた試合に出させてもらえたら、そのマウンドでスピードガンを見て決めようと思ったんです。そういう気持ちで臨んだ次の試合、145㎞という数字を見て「まだやれる」と思いました。それで、他の球団を探していました。声を掛けてくれる球団もあるにはありました。

そうして新年を迎え、山梨のゴルフ場で自主トレをしていた時のことです。「今年はどんなシーズンになるんだろう」と考えながらランニングをしていたのですが、どうしても日ハム以外のユニフォームを着ている自分がイメージできない。アレッ、おかしいな……。と思いながら、何でもない道を走っていたら、ガクッとつまずいて足をかなりひどく捻挫してしまった。足を引きずりながら車に乗り込んだ帰り道、車の中から球団スタッフに電話しました。「岩本を日本ハムから引退させてください」。すると「ガンちゃん、今までチームに貢献してくれてありがとう。日本ハムとして引退試合を用意させていただきます」とその場で言っていただいたんです。もう涙が止まらなくて、しばらく車を走らせられませんでした。引退試合というのは、野球選手にとってものすごく名誉なこと。それを、9月に通告を受けて、新年まで何の返事もしなかった自分に即答で約束してくれた。球団の温かさに胸が一杯になりました。しかも札幌ドームと東京ドーム、2回も機会をいただいて……。僕は本当に幸せだな、幸せな野球人生だったなと改めて噛み締めました。

内野 東京ドームでの始球式、憶えています。

岩本 凄かったでしょ、清原さん。あの人も、本当に義理堅い、男気のある方です。「ガンちゃん、引退セレモニーで始球式するんだって。俺がバッターボックス立ってやるよ」って言っていただいたんです。その日、清原さんは試合に出る日じゃなかったんです。それなのに、試合用のユニフォームを着て、試合用のグローブとバット、全部試合と同じ正式な格好で、ウォーミングアップをしてからバッターボックスに立ってくれた。そして僕が投げた球を、思いっきり空振りしてくれた。嬉しかったですね。

内野 岩本さんが常に持ち続けている感謝の心、謙虚な気持ち、そして努力を続ける姿勢が、皆さんを惹き付け、つないでいるような気がします。

岩本 僕自身はそんなに大したものじゃありませんが、周囲の人々には本当に恵まれていると感じます。今は北海道と東京の仕事がメインなので大阪の自宅に帰ることは少ないのですが、自宅の居間に飾られている赤いグローブ。母親が苦しい生活の中で買ってくれた、僕の初めてのグローブが赤でした。普通の色のものよりも少し高くて、欲しかったけれど言い出せなかった。そんな僕の気持ちを察して母が買ってくれたグローブです。嬉しくて、嬉しくて。枕元に置いて寝ながら「絶対野球選手になる!」と心に誓ったのが小学校2年生の時。今飾っているのは、もちろんその時のグローブではなく、引退試合に使ったものです。引退試合用にメーカーの方にお願いして作ってもらった。「エッ? 赤?」と驚かれたけれど、その思い出を話して作ってもらいました。そのグローブを見るたびに、自分の幸せな人生と、これまで関わりのあったすべての方々への感謝が新たになります。

内野 今日はたくさんのいいお話を、本当にありがとうございました。最後に、これからの活動と読者に一言お願いします。

岩本 第二の人生を送っている今は、お話をいただける仕事を、精一杯やっていく所存でおります! その中でも、野球に関わる仕事、北海道をはじめ社会に貢献できる仕事を、ずっとやっていきたいですね。これからも健康第一、毎度ありがとうございます、の精神で頑張ります(笑)。読者の中には、病気やけがで悩んでいる方もいると思いますが、可能性を持った自分自身を信じて頑張ってください。