2022

04/07

パンデミックと戦争とメンタルヘルス ―記憶と現実―

  • メンタルヘルス

西松 能子
立正大学心理学部教授・博士(医学)、大阪医科大学医学部卒業後、公徳会佐藤病院精神科医長、日本医科大学附属千葉北総病院神経科部長、コーネル大学医学部ウェストチェスター部門客員教授を経て現職日本総合病院精神科医学会評議員、日本サイコセラピー学会理事、日本外来臨床精神医学会理事、現在あいクリニック神田にて臨床を行う。

よしこ先生のメンタルヘルス(61)

コロナ禍で始まった新たな災厄

2020年2月、ダイアモンドプリンセス号に始まったコロナ禍は、当初は1年もたてば収束するだろうというのが大方の見立てでした。しかしその後2年を超えても全く収束の気配さえ見えず、いつの間にか世界は「with コロナ」に舵を切りつつあります。私どもの外来でも、予約時に「娘がコロナにかかって保育園に行けないので、受診できなくなった」「濃厚接触者になったので、クリニックに行けない」など、コロナがすっかり身近になりました。死に至る新型ウイルスへの長く続く不安や恐怖、人と接することを避けるための孤立と孤独の中で、一方ではロシアのウクライナ侵攻という新たな厄災が始まりました。人道回廊の西部方面行きがミサイルの標的となり、人々の心を打ちのめしました。わが国では、わが身に迫る厄災とは遠いけれど、毎日の報道が共にあり、人々のメンタルヘルスをひたひたと低下させています。

東京都精神神経科診療所協会では、日曜日や祝日など休みの日には電話相談を受け付けています。この電話相談には御常連も多く、日常の受診や服薬の訴えが多いのですが、初めての相談の方の中に、このところウクライナの悲劇に何もできない自分を責めてしまう、戦争の報道で眠れない、人類自体が生きていていいのだろうか、という訴えが増えています。日本からははるかに遠いかの地の出来事ですが、日本中の人々がわがことのように感じていることは、さまざまな街や会社や人々がそれぞれの方法で、ウクライナ支援の手を差し伸べていることからもよく分かります。

リアルタイムの情報がもたらすもの

私たちは第2次世界大戦の後の世界史上まれな、全世界でおおむね平和な時代を過ごしてきました。アウシュビッツに代表される各地のジェノサイドのような戦いの記憶は、人類に不戦の誓いを立てさせるのに十分な衝撃をもたらしました。85年たち、今や前の大戦の悲惨な記憶を持つ人々はほとんどいなくなりました。動乱の時代の記憶が薄れるにつれ、再び武力によって自国の利益、利権を得る侵略、ウクライナ侵攻が始まりました。85年前と現在の違いは、戦争の只中から被害を受けたその人自身が、フェイスブックなどSNSなどによってインターネットから発信していることです。一方では、そこにフェイクニュースの嵐も吹き荒れているのでいるのですが……。病院や劇場など民間施設も「軍人がいるスパイの巣窟」の名のもとに攻撃されています。しかし、「負傷した妊婦は役者で妊娠していない」という報道の直後に、幸いにも妊婦が生きながらえ、現場から出産と生まれた子供の名前がヴェセールカ(ウクライナ語で虹)であることが報道されます。人々は隣人の不幸のように戦争の悲劇を見聞きするのです。

これらのリアルタイムの情報は、人々の心に大きなストレスとして降りかかっているようです。その人が実際に体験していない「危うく死ぬ、重症を負う、性的暴力を受ける」などの出来事は、診断上はトラウマではないとされているのですが、電話相談で相談する方々は口々に「私の孫のようなかわいい子供が」「もし自分の肉親だったら」「目の前で見ているような」と訴えるのです。インターネットは時間と空間を越えて、人に出来事を身近でリアルなものとしてまざまざと訴えかけるようです。電話相談では、「自分の孫のようなかわいい子供がつらい思いをしているのに、何も手助けができない自分を責めてしまう」「ウクライナ戦争のことを考えると眠れない」と訴えられます。

通常は、今ここで(here and now)の自分に焦点を当てるという技法を用いますが、この強い共感を全て否定して「ここは日本で安全です」と伝えるのもそぐわないような気がしてなりません。記憶が風化し、新たな厄災がもたらされ、瞬時の情報の中で私たちの心を打ちのめし、多くの人の心にメンタル不調をもたらします。電話相談では「今あなたができることはありますか」と尋ね返してみました。「私にできることは何もありません」と言っていたその人は、「隣町ではウクライナの人を受け入れるそうです。そこのボランティアに参加します」と言い、「少し気持ちが楽になりました」と電話を切りました。

人々の共感する力や優しさが、メンタル不調ではなく、未来につながる力となり、圧倒的な武力に対抗できるようになりますように。