2016
09/15
ストレスチェックの今
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メンタルヘルス
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立正大学心理学部教授・博士(医学)、大阪医科大学医学部卒業後、公徳会佐藤病院精神科医長、日本医科大学附属千葉北総病院神経科部長、コーネル大学医学部ウェストチェスター部門客員教授を経て現職日本総合病院精神科医学会評議員、日本サイコセラピー学会理事、日本カウンセリング学会理事、現在あいクリニック神田にて臨床を行う。
ドクターズプラザ2016年9月号掲載
よしこ先生のメンタルヘルス(39)
実施する上で立ちはだかる問題
ストレスチェックの目的とは
全ての企業におけるストレスチェック実施の1回目のデッドラインは、今年の11月30日です。前回「ストレスチェックって何?」でお伝えしたように、従来の受診を求めて来院するメンタル不調の人たちよりも、軽症な人々がストレスチェックでは顕在化するといわれています。実際にはメンタル不調であるにもかかわらず、気付かれなかった人々が顕在化するだけではなく、いわばメンタル不調予備軍といわれるような人々も顕在化することになるでしょう。行政は「ストレスチェックは一次予防である」と言っているのですから、当然今回のストレスチェックでは病気未満の人たちの病気の原因を除き、発生を防ぐことが目的にかなうことになります。
ここで大きな困難が生ずることになります。実は、今もって「これだ」という病気の原因は、精神医学では分かっていません。もちろん、それぞれの障害について「病気の原因であろう」と推定される数多くの要因があることは確かです。しかし、それらの要因があったとしても発症しない人もいれば、目覚まし時計が鳴るように何のきっかけもなく、原因とされるようなこともなく発症する人もいるのが現実です。例えば、心的外傷が特定されて、それらの原因にさらされない限り発病しないといわれている「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」においても、同一の心的外傷にさらされても発症する人は20%前後といわれています。つまり、ストレスにさらされた5人のうち1人だけが発症するのです。発症しない4人と発症する1人を、現在の精神医学は予測することができません。障害の定義上、原因を特定できるはずのPTSDにおいても、このような不確かさがつきまとうのです。私たちは予防において、100人に1人が発症する環境の不備を除くべきでしょうか。1000人に1人が発症する環境の不備を除くべきでしょうか。こう考えていくと、精神的なストレスのない環境をどこまで整えれば一次予防になるのだろうかという疑問が湧いてくるのではないでしょうか。
一方、相模原事件をきっかけに、社会を精神障害者から守る存在としての精神科医の役割に注目が集まっています。実は精神科医が長く社会から要請されてきたのは、こちらの役割です。措置入院や医療保護入院という形態で、精神障害を持つ人々の中にいる自分を傷つけたり、他人を傷つけたりする可能性のある人々を、病院内に保護、拘束、治療することが長く社会から求められてきました。その後、1964年のライシャワー事件を契機に、退院後の治療が継続してなされるべきとなり、都市部に外来のみの精神科診療所が作られるようになり、やっと50年余りになります。従来、社会を精神障害者から守る役割が精神科医に求められていたことと、原因が未だ分かっていないことを考えると、予防の概念がほとんど精神科医療になかったことも納得できることです。
21世紀になって、「リワーク」など復職支援のためのデイケアが広く行われるようになりました。これらの試みを再発予防、リハビリテーションと考えると、精神科医療では、やっと三次予防(病気になった人のための再発予防)が端緒についたところといえるのかもしれません。
このように考えると、今回のストレスチェック制度は、精神科医にとって困難な隘路を歩くことになっていることがお分かりでしょう。病気未満の人々やごく軽症のメンタル不調の人々を治療する薬物療法は、精神科医療においては世界中どの国にもないのです。では、一方この国の精神科医療の中で充分な精神療法の技量と時間を持つ治療者を見付けることはできないかもしれません。(精神科では精神療法は5分以上全て一律料金ですから)今日までこの国は、ごく少ない医療予算で至適な医療を供給するために、「社会を精神障害者から守る」という点に焦点を絞り、精神科医療を行ってきたのですから。もっぱら薬物療法を行うことによって、病状を改善できる重篤な人々が従来の精神科医療の対象でした。今回、病気未満の人々を教育、啓発し、心の健康度を育むという従来とは全く異なる役割を担うことになりました。今回のストレスチェック制度の施行によって、この国の精神科医療の幅が広がっていくための様々な施策が行われますように。