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あの時、別の手だてはなかったのか?

診療日記

灰本 元
『診療日記』
医療法人芍薬会 灰本クリニック院長(内科医)
ドクターズプラザ2018年9月号掲載

新連載/診療日記(1)

私は今年で内科医になって40年、医院を開業して28年目となった。幕引きや死という言葉が常に寄り添う年頃である。診療のあれこれを思い出してみても、あまり良いことは脳裏に浮かばない。その中でもどうしても避けて通ることができない患者のことを書いてみたい。

薄れゆく記憶をたどっていくと、およそ20年も前のこと、40歳前後の小柄でかわいい女性Aさんが動悸、めまい、不眠などの不定愁訴で来院した。当時の私は西洋医学的な治療に限界を感じて、臨床心理学、いわゆるカウンセリングに取り組み始めたばかりだった。Aさんは一目で心身症と感じ感じられたが、元気で歯切れの良い話しぶりに潜む陰のような何かに私は引きつけられたと思う。月に1回通ってくるうちに、両親はすでに亡くなり近所に姉夫婦がいること、重度の発達障害を持つ10代後半になる息子さんを育てるのに大変苦労していること、それが原因で夫と離婚したことが分かってきた。いろいろな薬を試してみたがなかなか効果はなかった。

ある時、Aさんはその息子さんを連れて来院した。車で30分もかかる距離を連れてくることも待合室で待つこともたいそう重労働と気苦労だったと思うが、Aさんは私にしんどさを分かってほしかったのだと思う。息子さんは痩せて背が高くうつろな目をして言葉も意思疎通も全くできなかった。今にも暴れ出しそうな息子さんとそれを必死になだめる小柄なAさんに圧倒されてしまい、絶望感だけが私に残った。Aさんは一見元気なその裏で絶望の中を必死に生きているのだと私は悟った。この頃から私が引きつけられた陰はタナトス(※1)ではないかと思うようになった。

それからというもの真剣にAさんの話を聞くと同時に、息子さんを施設に預けたらどうか、行政からの支援はどうか、当院にカウンセラーがいるから短時間子供を預けてしんどさを話してみたらどうかなど何度も説得した。しかし、Aさんは自分一人の力で育てたい、息子を放っておけないから長い時間のカウンセリングは無理など、かたくなともいえる拒否を続けたのだった。Aさんは死にたいと言ったことは一度もなかったが、助けを拒絶するその言動から、社会から孤立し破滅に向かって進んでいるように感じられた。

そういうある日、「Aさん、診察室へお入りください」という私のマイクの音声と共に颯爽(さっそう)とAさんが入ってきた。その表情の爽やかさは今までの元気を装った絶望とは全く違うと瞬時に感じられた。私はあろうことか思わず次のような言葉から会話を始めたのだった。

「Aさん、死ぬのだけはやめてくださいね」
「えっ、どうしてですか!」

不意を突かれたAさんの顔色が瞬時に変わったのを私は見逃さなかった。Aさんは図らずも本音が出てしまったのだ。

「私は何もできないが、あなたの主治医です。だから、私はあなたに死なれると何カ月もショックで立ち直れないと思う」
「……」

どうして先生がショックを受けて立ち直れないのか、という質問を受けたような気もするが、その後の記憶が定かでない。Aさんは私に最後の挨拶に来たのだ、そういう確信だけはよく覚えている。診察室を退出するとき、Aさんはいくぶん沈んでいたように思う。

このような重大事にもかかわらず私は、その後何も手を打っていなかった。そして翌朝、新聞の地方欄に小さな字でAさんの名前と心中という記事を見つけて私はうろたえ、胸が張り裂けそうになった。Aさんは息子さんが寝入った後に首を絞め、その後、自分も縊死したのであった。

この心中を受け入れるにはあまりにもAさんも私も若かった。なぜAさんは死を思い留まってくれなかったのか。しかし、防げたとしてもその後に希望はあったのか、Aさんは絶望からやっと解放されたのではないか、止めることだけが全てなのか、さまざまな気持ちが交錯していた。数日後にAさんの姉から電話があった。私は厳しく責められると覚悟していたが、涙ながらに「妹はあのようなことになったが、先生には大変、世話になったと感謝の念を伝えてほしいと妹から頼まれました」。Aさんは私をちゃんと主治医と認めてくれていたのだった。

Aさんが通ってきた数年間と最後の診察室の中でいったいどのような心理劇が起こっていたのだろうか。私自身がカウンセリングを引き受けたらどうなっていただろうか。20年前の霞がかった茫洋とした記憶を手繰り寄せながらあの時の情景を言葉で紡いでいると、Aさんの絶望と爽やかな表情が鮮やかに蘇ってくる。それと向きあって力不足だった45歳の私がそこにいる。そして、この心中を巡って45歳と65歳の私は“あの時、別の手だてはなかったのか”、今も自問自答を繰り返している。20年たっても答えは未だ見つからない。

 

※1)ギリシャ神話の死神

ドクターズプラザ2018年9月号掲載

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