2025
07/07
がんの痛みの緩和ケア②オピオイド・クライシスの教訓
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緩和ケア
日本緩和医療学会緩和医療専門医。日本緩和医療学会代議員・日本死の臨床研究会代議員。
一級建築士、技術士(都市計画)の資格を持つ異色の緩和ケア医。現在は緩和ケア病棟(設計)の研究のため、東京都立大学大学院都市環境科学研究科建築学域に在籍中。
「緩和ケア」の現状と課題(6)
痛みの10年
「痛みの10年(The Decade of Pain Control and Research)」という言葉をご存じでしょうか。
これは米国が、国民の慢性的な痛みの解決に向けた社会的投資が十分でなく、医療費の増大や労働力の低下など国家的な損失をもたらしているとして、2001年から10年間、官民挙げて鎮痛対策に取り組むとした国家的な宣言です。
この宣言は、大統領の思い付きとか、選挙目当てのポピュリズムとかではありませんでした。当時、米国では多くの公衆衛生学的な検討がなされ、例えば米国民の約6,500万人が慢性痛を患っているとか、この痛みがもたらす労働生産性の損失が年間800億ドル(当時の換算で9兆円)であるとか、対策の必要性の根拠が明確に示されていました。これを受けて2000年に米国議会が可決し、クリントン大統領の署名の上で発効したのです。これを機に、鎮痛薬の研究や教育の充実、そして医療現場における積極的な鎮痛対策が行われました。
この運動は米国にとどまらず、多くの国に広がりました。日本でも、2001年と言えばまだがん対策基本法もない頃でしたが、緩和ケア、ペインクリニックや整形外科の専門家らがこれを紹介し、数年後には緩和ケア医として駆け出しの私の耳にも「痛みの治療を受けるは患者の権利、痛みを治療するは医療者の義務」というフレーズが届くようになりました。世界中で、痛みの発生機序の解明や治療機器の開発などの研究成果が上がり、日本でも次々と新しい鎮痛薬が上市されました。ある著名な研究者は当時「西暦2010年は痛みの治療のturning point yearとして記憶されることになる」と高らかに述べていました。
しかし世界が記憶したのは、全く別の事態でした。
オピオイド・クライシス
「オピオイド・クライシス」とは、オピオイド(モルヒネや、これに類似するように合成された麻薬性鎮痛薬)の不適切使用が米国で広がり、過剰摂取による死亡者増などが社会を揺るがす問題に発展してしまったことを指します。
米国における麻薬の問題は60年代から社会に暗い影を落としており、かつ、米国内のオピオイド処方量は実は1990年代に既に増加していたのであって、2001年からの「痛みの10年」に端を発したものではありません。しかし宣言後の慢性痛に対するオピオイド投与の拡大は、それまでにないほどに問題を深刻化させました。どのくらい深刻かと言えば、米国でのオピオイド関連死亡者が第2次世界大戦での米国人死亡者数を上回ったとか、毎年の死亡者数は交通事故や自殺、銃使用による死亡事故よりも多いとか、先進国の中で米国だけ白人男性の平均寿命が下がり続けているとか、そういう衝撃的な報告がいくつもあります。戦争や感染症で一時的に平均寿命が短くなることは理解できますが、麻薬のまん延が普通の、身近な人々の命を今まさにじわじわ奪い続けている社会を、読者の皆様は想像できるでしょうか?
オピオイドの不適切使用の恐ろしさ
この事態が放置されたわけではありません。WHOなどの欧米各機関はオピオイド使用に関するガイドラインを次々と厳格化しました。2017年には政府も「公衆衛生上の緊急事態」であると宣言し、問題の収拾に乗り出しました。そして処方医たちはオピオイド処方を急速に控えました。しかし死亡者数はその後も増加したのです。米国におけるオピオイド関連の年間死亡者数をウェブで検索すると2010年16,651名、2017年47,600名と出てくるのですが、CDC(米国疾病予防管理センター)の最新(2025年5月14日)の発表によれば2024年は54,743名に上っています。
この底なしの事態の背景として指摘されるのが、医療機関からのオピオイドの供給が断たれた常習者たちの多くが非合法の、より一層危険な薬物に手を染めてしまったことです。医療用に処方された鎮痛薬は「ゲートウェイドラッグ」(より危険な薬物使用につながる入口)になってしまいました。オピオイドは(がんの痛みなどに対して正しく利用するのではなくて)一度不適切な使用を始めてしまうと、後戻りのできない恐ろしさがあるのです。
孤独の病
もう一つ、この「オピオイド・クライシス」に関連した注目すべき指摘があります。それは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)まん延時に、オピオイド関連死亡者がさらに増えた点です。
薬物依存は、薬物の作用機序に加えて、使用者の性格や取り巻く環境の影響が大きいとされます。薬物依存に対する取り組みには社会的なサポートが不可欠なのですが、COVID-19まん延時にはソーシャルディスタンスがこれを阻み、緊急時の対応が遅れたり、誰にも頼れない依存者を絶望の淵に追いやったりしたとされるのです。
先のCDC発表は、実は「2024年の死亡者数は、前年の死亡者数83,140名から大幅に減少した」という朗報として報じられています。しかし、これを誤解してはいけないのです。確かに死亡者数が激減したのは素晴らしいことですが、この数字は2019年のCOVID-19流行前の数値に戻っただけのことです。そして死亡者減に一番効果を発揮したのは、オピオイドの過剰摂取時の呼吸抑制などを緊急に解除する「ナロキソン」という薬が市中の薬局でも入手できるようになったことといわれています。つまりは、死亡事故の水際対策が進んだだけであって、薬物依存の根本は何ら改善されていません。
オピオイドはがん患者のQOLを確保するなど、医療には欠かせない薬です。しかしこの薬の持つ本質的な危険性は、決して忘れてはいけません。